劇場版ガンダムSEED、感無量でした。複雑な思いもあり、見ることを躊躇していたというのに、冒頭3分でもう泣いていました; 本当に、本当にSEEDの続編を見られるんだと。20年近く待って、本当に始まるんだと……。
けれど、やはりこのことに整理をつけたいと思います。最も思い入れのある登場人物である「フレイ・アルスター」の描写は、やはりなかった。2,3ある回想シーンも、戦争のトラウマや偏見という文脈であり、彼女をどう納得すべきかというような、人間関係の話はありませんでした。
これについて、けっきょくキラとフレイの関係はSEEDの傍流でしかなかった。重要ではなかったという理解も可能です。そうであるなら悲しいし、そう言われて悩んだ20年後に、再びそうだと突きつけられたのだととしたら、笑うしかありません。
しかし、どうしてか納得できたのです。鑑賞直後からそうでしたし、数日を経た今でもそう思っています。フレイ・アルスターの描写などなく、キラとラクスがついに深く結ばれる物語において、それに疑義なく“なぜフレイ・アルスターを納得できるのか”。
納得探しの認知バイアスやもしれません。ですが、まとめてみたいと思うのです。(ネタバレ配慮一切ないです)
まずそもそも論を。個人的には核心とは思っていない。けれど、実際は理由の大方やもという観点として、キラがやっと幸せになってくれたということです。
書き始めると、やはりここだという気も強くなってきます。そもそもとして、フレイについて私が拗らせた最大の理由は、キラがディスティニーを通じてあまりに幸せそうでなかったことです。
フレイはその最期に、キラへの無償の愛を届けようとしました。ただ、泣き止んでほしい。ただ、守ってあげたい。そういう想いに至った物語だったと思います。
であれば、その想いは片務的なもので、もはやキラからの報酬や返答を求めるものではありません。ただキラが泣き止んで、笑顔となれば。幸せとなってくれれば、フレイの本当の想いは成就するのです。そして2人の関係は、(最も望ましい形ではないともしても)救いのある帰結にたどり着きます。
しかしキラが泣き止むことはなかった。貼り付けような笑みを浮かべて、ずっと泣き続けていた。むしろフレイが最初に与えてしまった、呪いばかり残っているかのように、自らを削る戦いを続けていた。
SEED FREEDOM中でも、キラが「戦って、戦って、戦って……」と、自身のあり方を嘲笑するシーンがあります。フレイが最初にキラにかけた、呪いそのままの言葉……。2人はこのことについて、ついぞ言葉を交わせなかったのに、なぜこんなことばかり。暗澹たる気持ちになりました。
でもだからこそ、それに続くシーンに心を揺さぶられました。アスランや仲間たちを前にして、やっとありのままの気持ちを吐き出すことができた。そして受け止めてもらえた。これこそ私がずっと見たかった、キラ・ヤマトの姿です。(びっくりするほど泣きました)
また、キラとラクスがついに想いを通じ合わせたということも、大きな喜びでした。元々、傷つきながらも理想を抱く人物を好む私にとって、2人は少年期の憧れでした。
しかし、その理想こそが2人の間に影を落としているように見えた。劇場版を通して言語化が容易となりましたが、“必要だから愛する”――実情はとっくにそうではないというのに、その疑念が2人の絆を阻んでいるようでした。
ラクスがキラを愛した端緒に、それがあったのは事実でしょう。彼女は高い理想を抱く人物です。その点で孤高であり、ともに立ってくれる同志は得難いものだったはず。けれどそのために、心優しい泣き虫の少年が、傷つき斃れたその度に、新しい剣を与え、戦場へ向かわせる結果となってしまった。
ディスティニーを通じて、ラクス自身がそれを常に後悔しているように見えました。またSEED FREEDOMにおいても、必要ゆえの愛との糾弾を否定しながら、されど深く動揺するのはその疑念が心の中にあったからでしょう。
けれど、その想いは晴れた。2人は互いへの愛を確信した。能力や価値ではなく、力だけが全てでもなく、理解し理解され愛される関係を手にした。
そしてついにキラは泣くのをやめたと言えます。このことが、どれほど救いのある話であったか……。少なくとも私が信じる「フレイ・アルスター」は納得したはずだと、そう思えたのです。
フレイの描写はなくとも納得できた。その理由の大体はここにあったと思います。20年も待ったのですから、感傷的に言わせてください。
この描写の時点で、心の中のフレイ・アルスターは、少し寂しそうな表情を残しながらも、深い納得をともなう泣き笑いの表情で、光の粒となって消えていったのです。やっと、本当にやっと……
ただし、まだ残っている遺恨はあります。不要だと、マイナスだと評されたことに対して、私個人が抱いた感情はなお残り得ます。
けれど、実際はそれすらもほどけていった。それがなぜだったか。
1つに、イングリットとオルフェの描写があったかと思います。SNSでは『キラフレIfルート』や、名前の由来への考察等が流れてきていましたが、目にしてなるほどという気持ちがありました。
確かに、なぜか想起される。想起と言えば、予告段階ではアグネスが話題にあがっていましたし、監督や桑島法子さんの発言からも、元々の狙いはそこにあったはず。(髪の色はフレイ+毛先ラクスでキラの好みなはずとは、相変わらず発想が悪辣だなぁと思いましたが……)
けれど蓋を開けてみると、人物的には一定の距離があったかと思います(桑島さんも全くの別人と認識)。戦争で情緒や人間関係を歪められた少女という点では、アナザーな気はしますし、またルナマリアという恋情が絡まない仲間との交流は、フレイにとっても必要だった、まさにIFルートであるとも思います。
(ミリアリアがフレイを反面教師として憎悪を断ち切ったように、フレイもミリアリアとの交流があればという話を最近聞いて、感銘を受けたりなども)
しかし、やはりイングリットにこそ私は「フレイ・アルスター」を見たのです。人物像の過程ではなく、その想いの行く末についてですね。
オルフェはキラと似ていると評されます。能力や価値の基準に囚われ、運命に縛られているという点では、確かに2人は共通するところがあります。また、そんなオルフェに対してイングリットが抱く、ありのままを愛したという想いは、SEED終盤のフレイを彷彿とさせます。
そしてそのように考えると、そんな想いを込めた言葉が、“聞こえる形”で伝えられたというのは、なかなか感慨深いものがありますね……。フレイの最期の言葉について、キラには聞こえていなかったというのは、長年フレイ推しを(というかキラを)苦しめ続けた事象であります。
なお、イングリットの想いが通じたかについては議論があるようですが、私は通じたと思うことにしています。実際に劇場で聞いたオルフェの言葉には、戸惑いや失望だけでない、期待や親愛が滲んでいる気がしたからです。
(これについては、ニュース記事における下野さんの発言からも示唆はされていると思います。『【ネタバレあり】『ガンダムSEED』下野紘、悩んで収録したオルフェの一言 キラとのシーンは「心の底からニヤニヤ」』
あとネットにあった私見ですが、認識や感情を共有できるアコードにとって、愛の真実性を伝えるのに時間は必要ないと言っている方がいて、素敵な解釈だなと思ったりも)
そして、想いが通じたのだとすれば、フレイの本当の想いもまたキラに通じるものだった、救いとなりえるものだったと、間接的な証明がなされたとも言えます。少なくとも、そう飛躍する余地はあると思います。
また、この憶測が正しい可能性があったとして、その上でそれが“救い”として描かれたというのなら……不要や間違いと評されがちなキラとフレイの関係について、“救い”となり得たと描かれたと、思いたくなってしまうのです。
(なお「フレイ」という名は、北欧神話で最も眉目秀麗とされる神、フレイを容易に想起させます。またフレイとは本来尊称であり、その古い名としてイングがあり、そしてそのイングを由来とする女性名こそイングリットである。
……という話は、引き込まれそうなほどの説得力を持ちます。ただ、こんな話は監督のツレない一言で簡単に破壊されるので、しばらくは真剣に考えないことにします)
イングリットとオルフェについてはこんなところです。これで以上、としてもよいのかもしれません。フレイという決して好かれない登場人物の描写を排しながら、けれどその不在が残した心残りを解消してくれた。すでに十分な納得感です。
けれど、もう少し書き残しておきたいことがあります。そしてこれこそが、私自身が納得を得ることができた、最大の理由であるのです。
それは、“フレイがいたからこそ”キラは幸せになれたし、その想いは望ましいものだったと確信を抱けたこと。
そして同時に、今のキラの心の中に、“フレイでなければ”という要素がないことこそが救いなのだという、一見矛盾する認識を両立させられたからです。
自分でも面倒な執着だと思うので、整理したいです。先日、キラやフレイについて相当な長文を書きました。(『「機動戦士ガンダムSEED」-ネタバレ有で戦争観、キラ vs クルーゼ、フレイを語りたい-』)
そこでSEED劇中において、キラがフレイにこそ支えられていた時期は確かにあった、フレイがいなければキラの心も命もついえていたと書きました。
「それでも、守りたい世界があるんだ」という結論になお至り、光指す日を願えたとしたなら、彼女の存在はキラの今につながっている。そうとは思えていたのです。
けれど、フレイの存在はディスティニーにおいて直視されませんでした。だというのに、キラは泣き止んでいない。それが、“フレイでなければ”を燻らせ続けました。そして、劇場版での描写が同様のものであるならば、その感情は解消されないと予期していたのです。
でも、そうとはならなかった。確かに表面的には、ディスティニーと変わらず彼女を直接的に語るシーンはなかった。しかし、それでよかったのだと何故か思えたのです。
望んでいたキラがフレイについて言及するシーンも、彼女を想起するシーンも、キラの心を守っているシーンなかった。けれど、そんなシーンを挟めば、救いは遠のいてしまう。なぜなら、もうフレイ・アルスターはキラの隣にいないからです。
もう、彼女にキラを抱き上げる手はない。それでも、キラが泣き止むことがフレイの最期の願いなのだとしたら、フレイの不在がキラの心の中で、絶対に癒しがたいものであってはいけない。だから、“フレイでなければ”という描写がないのは、必要条件なのです。
そのように思えたことが、描写がないことへの納得を得られた理由です。キラとフレイの関係の真実はどちらでもいい。不要なら描写はそもそもいらない。
されど必要だと仮定した場合においても、フレイの本当の想いが成就することを願うなら、フレイを想起するシーンがあること自体があまりに大きな障壁となってしまう。だから、よかったと思えたのです。
しかし、その上でもです。私個人はそれだけでは納得しきれない。そうだとしても、想いはキラにとって望ましいものであったのだと認識したい。けれど、そんな難しい認識を得る余地を、SEED FREEDOMは作ってくれているように思えたのです。
ここからはあまりに妄言の積み重ね。一方的な発信でなければ憚られるような内容です。しかしそうだと確信できた理由は、ラクスが図らずもフレイと同じ軌跡を辿り、その想いを汲んでくれたような気がしたからです。
ラクスとフレイという2人は、かけ離れた人物でありながら、キラという少年への想いについて、光と影のような相似と対称を有していると思います。一方は理想と博愛のため、一方は憎悪と復讐のため、必要性を端緒として彼の存在を求めました。
しかし両者ともに、彼の優しさにふれて想いを変化させていった。必要性を超えた、無償の愛を抱くようになった。ほぼ面識もなく、全く異なる2人が、時を隔てて同じように。
一見、最初から無償の愛に見えたラクスの愛も、必要性の苦悩を抱えるものだった。そしてときにキラを苦しめさえするものだった。
それでも、それこそがキラの命と心をつなぐ細い糸だったし、彼を守る想いとなった。そのことが、フレイの想いは決して望ましくないものではなかったと、信じさせてくれたのです。
そしてやはり、映画というものは、映像こそ雄弁に語りかけてきます。最終盤、プラウドディフェンダーを届けたのち、コクピットに乗り込むラクスの姿。その姿がどうしても……どうしても、フレイの姿と重なったのです。
先に言ったように、それはあってはいけない。真実でもない。あの空間にあるのは、2人の互いを想う愛だけ。それ以外のものなく、一切の混じり気などない。
けれどあの日、私にとっては20年も前のあの日、フレイが命をかけてまで届けたくて、けれど言葉は届かなかった本当の想いが、やっと届いた気がするのです。図らずも、重要な点として“図らず”も、相似する想いをラクスが届けたことによって。
そしてそれがキラの救いとなったなら、それはキラとラクスの物語であって、それ以外の何ものでもないのだとしても……フレイの想いが望ましいものであったことの証明であると思うのです。
以上が、私が劇場版「機動戦士ガンダムSEED FREEDOM」において、20年もくすぶらせたわだかまりを解消し、「フレイ・アルスター」について納得できた理由です。正直な所、誤解も甚だしいでしょう。また重要でもない。
けれどだからこそ、あのコクピットの邂逅を見せられ、それに勝手にフレイを重ね、けれどそこにフレイを想起させるものが一切ないことこそが救いだと、勝手に思えたという時点で、私が終わりにしていいことです。
色々な想いがあって、色々な納得がある。いまだ解消されないわだかまりもあるかもしれない。しかし、私個人は20年間待った甲斐が本当にあった。
だからやっと言えるのです。ガンダムSEEDは本当に素晴らしい作品だったし、大好きな作品であったと。そしてフレイが、キラが、ラクスが大好きだったと。
そのことについて、あまりにも大きな感謝の念を抱いています。そして20年間、時の流れの風化にまかせたところはあれど、最初に抱いた感慨を自ら捨てなくて、本当に良かった……。
さて、また長文を書いてしまいました。大事な話はすでに
お終い。けれど、各論で語りたいことが2つあるのです。なるべく手短に。それは写真と「去り際のロマンティックス」についてです。
まず写真について。言及している方も散見される、キラがデスクに飾っている写真について。確かになかなか邪推が捗る内容となっています。もちろん話すのはヘリオポリス組の写真について。
飾られている写真は、いずれもキラにとって大事な人達を写したものです。ヘリオポリス組との1枚があることに、全く違和感はない。けれど、いい写真だと思う一方で、他の写真が正面横並びの人物がはっきりとわかる、記念写真の構図であることを考えると、この1枚のみやや異質です。
写真がない、というのはあると思います。特に1学年上で、ゼミの先輩という立ち位置であるサイが写っているものは少ないでしょう。またアークエンジェル乗船後に、仲間内で写真を撮る時間的余裕も、なにより精神的余裕もなかったことは明らかです。
逆方向に考えて、彼が特に親しかったはずの、トールとミリアリアとの写真ならもっとあるのではないか。というかカズイとも写ってる写真はないのかと(彼が撮った写真と思うべきかもですが)。やはり腑に落ちきらない。
と、両方向から考えると、やはりこの1枚は、キラ・ヤマトという人畜無害そうな少年が、写真フォルダを隅から隅まで探して見つけだし、大切を飾る写真ボードに忍び込ませた男心だと思うんですよね……。後ろ姿の去っていくフレイ。なんという、距離感。
本論であれだけキララクの絶対性を語りながら、やはりこういった邪推を重ねてしまうのはよくないですが、たまらない気持ちにはなる次第です。
そして最後に、「去り際のロマンティクス」について。個人的には、『赤い残像』という言葉の議論には賛同していません。
それは望みすぎですし、むしろそうだった場合のほうが納得できない可能性が高いです(キララクが真に結ばれることが、フレイにとっての救いでもあると妄信しているので……)。
本曲がキラとラクスの曲であることは明白で、ラクスという名の持つ湖のイメージが想起される美しいリリックです。ちなみにPVにおいて、赤い残像という歌詞が歌われているのは、2人の最初の出会い、ポッドから桃色の髪をたなびかせてラクスが飛び出すシーンです(あとピンクちゃんが飛んでいく)。
そう考えると、赤い残像というのはラクスの髪の色であり、桃の残像やピンクの残像では収まりが悪いからなのではと思ったり(シャアのズゴックも“赤い”わけですし、まぁ)。やはりフレイの話だけをしだすのは我儘のような。
ただしこの一曲、それでもなおフレイ推しとしても聞き甲斐のあるものとなってはいる気はするのです。赤い残像は置いておいて、確かに“去り際”というのは、“これからは”の2人に似つかわしくはない。
『通るべき約束だった』、『人生には「それでも」がついてくる』、『もどかしさ』など、後悔を想起させる言葉も多い。これについては、PVにおいては意図をはっきりさせているような気がします。
PV付きの本曲は、わずか3分でSEED序盤の2人の出会いから、ディスティニー最終回までを描く、時間軸においてなかなか長いものとなっています。
転じて、両SEEDアニメ本編のダイジェストでもあるかのようなのですが……実は描かれる登場人物はかなり絞られたものとなっています。
フレイ、アスラン、シーゲル、ミーア。機体をカウントするならばクルーゼ。あとはシンが少し。背景ではもっと多くの人物が登場しますが、多数のキャラクターが織りなす群像劇でもあったSEEDでありながら、はっきりと描かれるのはたった数人なのです。
そして書き並べてみれば、意図は明白と思われます。描かれた4人から6人、そのほとんどが、2人の生き方に大きな影響を与え、そして取り戻し難い喪失をもたらした人物です。
フレイはもう十分でしょう。シーゲルは語る必要もない。ミーアの死がラクスに埋めがたい後悔を残し、けれど戦いを続ける決意の源となったというのも、わかりやすいところだと思います。(小説版SEED FREEDOMで詳しいらしいですね。読まねば)
またアスラン。これはラクスにとってのアスランなのかなと、私は思います。ラクスの真意はキラ以上に読み取り難いのですが、幼少期からの婚約者に悪い感情はないでしょう。
あんなんですが、誰よりも誠実で“強い”男です。(ハロをいつまでも大事にしたり。他にもSEED序盤でキスをねだる程度には、など)
なによりも、ラクスが理想を貫くと決めた後の、ラクスとアスランのシーンが流れるのが印象的です。愛の反対が無関心であり、怒りが愛と遠くない感情であるとするならば、ラクスとアスランの間にも分かち難いものはあったのではないかと。
(ラクスが1個人に対して、公人というより私人として怒りを向けたのは、アスランだけである気がします。そう考えると、SEED FREEDOM中でラクスを語るアスランに対して、俺も劇中のみんなと一緒に笑っちゃったけど、あんがい彼こそわかることもあるのかもしれません)。
そして映画の最後の台詞。まだ映像がないのでうろ覚えですが、“話してください。あなたの心の中にある、どんな小さなことでも”という台詞。そして『私は告白します 去り際のロマンティクス』という歌詞。
ロマン。心が抱く情念。これはやっぱり、2人がそれぞれを作り上げ、そして心の中に遺り続けている傷みや想いを、分かち合っていくということなのではないのかなぁと。
そしてそう結論付けられるのなら、本記事の主題にとっても、『淡い安らぎ』をもたらすものとなる気がします。
2人はこれから、2人だけを理由として愛を交わし、これからを生きていく。けれど、キラの心のなかに、かつてあったことはなくなったわけじゃない。それは確かにキラをつくっている。傷だとしても、今の彼を生かしている。
であれば、もう悩むことはないのかもしれない。そんなことを思うこともできる、素敵な楽曲でありPVでした。
本当のところはわかりません。石川智晶さんがインタビューで語っている、『全く遠い存在であった人物の目線』というのも、本当にわかりません(素直にラクスと思うのですが……)。
ですがそれはいいでしょう。20年経ってたどり着ける感慨としては、なかなか悪くない。だから、そう思ってやはり、勝手に納得する次第なのです。。
以上、なんと合計2万字。1人か2人くらい、読んで共感してくれたなら嬉しいなぁと。あと願うとすれば、グランプリで20位くらいに入ってればいいなぁ。でも一定の人気があるキャラを数えていくと、やっぱ無理かぁと、そのくらいですね。
なので、この記事を添えて、最終投票に臨みたいと思います。これが私の、あまりに長い# フレイ・アルスターに一票! ……というわけでした。
けれど、やはりこのことに整理をつけたいと思います。最も思い入れのある登場人物である「フレイ・アルスター」の描写は、やはりなかった。2,3ある回想シーンも、戦争のトラウマや偏見という文脈であり、彼女をどう納得すべきかというような、人間関係の話はありませんでした。
これについて、けっきょくキラとフレイの関係はSEEDの傍流でしかなかった。重要ではなかったという理解も可能です。そうであるなら悲しいし、そう言われて悩んだ20年後に、再びそうだと突きつけられたのだととしたら、笑うしかありません。
しかし、どうしてか納得できたのです。鑑賞直後からそうでしたし、数日を経た今でもそう思っています。フレイ・アルスターの描写などなく、キラとラクスがついに深く結ばれる物語において、それに疑義なく“なぜフレイ・アルスターを納得できるのか”。
納得探しの認知バイアスやもしれません。ですが、まとめてみたいと思うのです。(ネタバレ配慮一切ないです)
まずそもそも論を。個人的には核心とは思っていない。けれど、実際は理由の大方やもという観点として、キラがやっと幸せになってくれたということです。
書き始めると、やはりここだという気も強くなってきます。そもそもとして、フレイについて私が拗らせた最大の理由は、キラがディスティニーを通じてあまりに幸せそうでなかったことです。
フレイはその最期に、キラへの無償の愛を届けようとしました。ただ、泣き止んでほしい。ただ、守ってあげたい。そういう想いに至った物語だったと思います。
であれば、その想いは片務的なもので、もはやキラからの報酬や返答を求めるものではありません。ただキラが泣き止んで、笑顔となれば。幸せとなってくれれば、フレイの本当の想いは成就するのです。そして2人の関係は、(最も望ましい形ではないともしても)救いのある帰結にたどり着きます。
しかしキラが泣き止むことはなかった。貼り付けような笑みを浮かべて、ずっと泣き続けていた。むしろフレイが最初に与えてしまった、呪いばかり残っているかのように、自らを削る戦いを続けていた。
SEED FREEDOM中でも、キラが「戦って、戦って、戦って……」と、自身のあり方を嘲笑するシーンがあります。フレイが最初にキラにかけた、呪いそのままの言葉……。2人はこのことについて、ついぞ言葉を交わせなかったのに、なぜこんなことばかり。暗澹たる気持ちになりました。
でもだからこそ、それに続くシーンに心を揺さぶられました。アスランや仲間たちを前にして、やっとありのままの気持ちを吐き出すことができた。そして受け止めてもらえた。これこそ私がずっと見たかった、キラ・ヤマトの姿です。(びっくりするほど泣きました)
また、キラとラクスがついに想いを通じ合わせたということも、大きな喜びでした。元々、傷つきながらも理想を抱く人物を好む私にとって、2人は少年期の憧れでした。
しかし、その理想こそが2人の間に影を落としているように見えた。劇場版を通して言語化が容易となりましたが、“必要だから愛する”――実情はとっくにそうではないというのに、その疑念が2人の絆を阻んでいるようでした。
ラクスがキラを愛した端緒に、それがあったのは事実でしょう。彼女は高い理想を抱く人物です。その点で孤高であり、ともに立ってくれる同志は得難いものだったはず。けれどそのために、心優しい泣き虫の少年が、傷つき斃れたその度に、新しい剣を与え、戦場へ向かわせる結果となってしまった。
ディスティニーを通じて、ラクス自身がそれを常に後悔しているように見えました。またSEED FREEDOMにおいても、必要ゆえの愛との糾弾を否定しながら、されど深く動揺するのはその疑念が心の中にあったからでしょう。
けれど、その想いは晴れた。2人は互いへの愛を確信した。能力や価値ではなく、力だけが全てでもなく、理解し理解され愛される関係を手にした。
そしてついにキラは泣くのをやめたと言えます。このことが、どれほど救いのある話であったか……。少なくとも私が信じる「フレイ・アルスター」は納得したはずだと、そう思えたのです。
フレイの描写はなくとも納得できた。その理由の大体はここにあったと思います。20年も待ったのですから、感傷的に言わせてください。
この描写の時点で、心の中のフレイ・アルスターは、少し寂しそうな表情を残しながらも、深い納得をともなう泣き笑いの表情で、光の粒となって消えていったのです。やっと、本当にやっと……
ただし、まだ残っている遺恨はあります。不要だと、マイナスだと評されたことに対して、私個人が抱いた感情はなお残り得ます。
けれど、実際はそれすらもほどけていった。それがなぜだったか。
1つに、イングリットとオルフェの描写があったかと思います。SNSでは『キラフレIfルート』や、名前の由来への考察等が流れてきていましたが、目にしてなるほどという気持ちがありました。
確かに、なぜか想起される。想起と言えば、予告段階ではアグネスが話題にあがっていましたし、監督や桑島法子さんの発言からも、元々の狙いはそこにあったはず。(髪の色はフレイ+毛先ラクスでキラの好みなはずとは、相変わらず発想が悪辣だなぁと思いましたが……)
けれど蓋を開けてみると、人物的には一定の距離があったかと思います(桑島さんも全くの別人と認識)。戦争で情緒や人間関係を歪められた少女という点では、アナザーな気はしますし、またルナマリアという恋情が絡まない仲間との交流は、フレイにとっても必要だった、まさにIFルートであるとも思います。
(ミリアリアがフレイを反面教師として憎悪を断ち切ったように、フレイもミリアリアとの交流があればという話を最近聞いて、感銘を受けたりなども)
しかし、やはりイングリットにこそ私は「フレイ・アルスター」を見たのです。人物像の過程ではなく、その想いの行く末についてですね。
オルフェはキラと似ていると評されます。能力や価値の基準に囚われ、運命に縛られているという点では、確かに2人は共通するところがあります。また、そんなオルフェに対してイングリットが抱く、ありのままを愛したという想いは、SEED終盤のフレイを彷彿とさせます。
そしてそのように考えると、そんな想いを込めた言葉が、“聞こえる形”で伝えられたというのは、なかなか感慨深いものがありますね……。フレイの最期の言葉について、キラには聞こえていなかったというのは、長年フレイ推しを(というかキラを)苦しめ続けた事象であります。
なお、イングリットの想いが通じたかについては議論があるようですが、私は通じたと思うことにしています。実際に劇場で聞いたオルフェの言葉には、戸惑いや失望だけでない、期待や親愛が滲んでいる気がしたからです。
(これについては、ニュース記事における下野さんの発言からも示唆はされていると思います。『【ネタバレあり】『ガンダムSEED』下野紘、悩んで収録したオルフェの一言 キラとのシーンは「心の底からニヤニヤ」』
あとネットにあった私見ですが、認識や感情を共有できるアコードにとって、愛の真実性を伝えるのに時間は必要ないと言っている方がいて、素敵な解釈だなと思ったりも)
そして、想いが通じたのだとすれば、フレイの本当の想いもまたキラに通じるものだった、救いとなりえるものだったと、間接的な証明がなされたとも言えます。少なくとも、そう飛躍する余地はあると思います。
また、この憶測が正しい可能性があったとして、その上でそれが“救い”として描かれたというのなら……不要や間違いと評されがちなキラとフレイの関係について、“救い”となり得たと描かれたと、思いたくなってしまうのです。
(なお「フレイ」という名は、北欧神話で最も眉目秀麗とされる神、フレイを容易に想起させます。またフレイとは本来尊称であり、その古い名としてイングがあり、そしてそのイングを由来とする女性名こそイングリットである。
……という話は、引き込まれそうなほどの説得力を持ちます。ただ、こんな話は監督のツレない一言で簡単に破壊されるので、しばらくは真剣に考えないことにします)
イングリットとオルフェについてはこんなところです。これで以上、としてもよいのかもしれません。フレイという決して好かれない登場人物の描写を排しながら、けれどその不在が残した心残りを解消してくれた。すでに十分な納得感です。
けれど、もう少し書き残しておきたいことがあります。そしてこれこそが、私自身が納得を得ることができた、最大の理由であるのです。
それは、“フレイがいたからこそ”キラは幸せになれたし、その想いは望ましいものだったと確信を抱けたこと。
そして同時に、今のキラの心の中に、“フレイでなければ”という要素がないことこそが救いなのだという、一見矛盾する認識を両立させられたからです。
自分でも面倒な執着だと思うので、整理したいです。先日、キラやフレイについて相当な長文を書きました。(『「機動戦士ガンダムSEED」-ネタバレ有で戦争観、キラ vs クルーゼ、フレイを語りたい-』)
そこでSEED劇中において、キラがフレイにこそ支えられていた時期は確かにあった、フレイがいなければキラの心も命もついえていたと書きました。
「それでも、守りたい世界があるんだ」という結論になお至り、光指す日を願えたとしたなら、彼女の存在はキラの今につながっている。そうとは思えていたのです。
けれど、フレイの存在はディスティニーにおいて直視されませんでした。だというのに、キラは泣き止んでいない。それが、“フレイでなければ”を燻らせ続けました。そして、劇場版での描写が同様のものであるならば、その感情は解消されないと予期していたのです。
でも、そうとはならなかった。確かに表面的には、ディスティニーと変わらず彼女を直接的に語るシーンはなかった。しかし、それでよかったのだと何故か思えたのです。
望んでいたキラがフレイについて言及するシーンも、彼女を想起するシーンも、キラの心を守っているシーンなかった。けれど、そんなシーンを挟めば、救いは遠のいてしまう。なぜなら、もうフレイ・アルスターはキラの隣にいないからです。
もう、彼女にキラを抱き上げる手はない。それでも、キラが泣き止むことがフレイの最期の願いなのだとしたら、フレイの不在がキラの心の中で、絶対に癒しがたいものであってはいけない。だから、“フレイでなければ”という描写がないのは、必要条件なのです。
そのように思えたことが、描写がないことへの納得を得られた理由です。キラとフレイの関係の真実はどちらでもいい。不要なら描写はそもそもいらない。
されど必要だと仮定した場合においても、フレイの本当の想いが成就することを願うなら、フレイを想起するシーンがあること自体があまりに大きな障壁となってしまう。だから、よかったと思えたのです。
しかし、その上でもです。私個人はそれだけでは納得しきれない。そうだとしても、想いはキラにとって望ましいものであったのだと認識したい。けれど、そんな難しい認識を得る余地を、SEED FREEDOMは作ってくれているように思えたのです。
ここからはあまりに妄言の積み重ね。一方的な発信でなければ憚られるような内容です。しかしそうだと確信できた理由は、ラクスが図らずもフレイと同じ軌跡を辿り、その想いを汲んでくれたような気がしたからです。
ラクスとフレイという2人は、かけ離れた人物でありながら、キラという少年への想いについて、光と影のような相似と対称を有していると思います。一方は理想と博愛のため、一方は憎悪と復讐のため、必要性を端緒として彼の存在を求めました。
しかし両者ともに、彼の優しさにふれて想いを変化させていった。必要性を超えた、無償の愛を抱くようになった。ほぼ面識もなく、全く異なる2人が、時を隔てて同じように。
一見、最初から無償の愛に見えたラクスの愛も、必要性の苦悩を抱えるものだった。そしてときにキラを苦しめさえするものだった。
それでも、それこそがキラの命と心をつなぐ細い糸だったし、彼を守る想いとなった。そのことが、フレイの想いは決して望ましくないものではなかったと、信じさせてくれたのです。
そしてやはり、映画というものは、映像こそ雄弁に語りかけてきます。最終盤、プラウドディフェンダーを届けたのち、コクピットに乗り込むラクスの姿。その姿がどうしても……どうしても、フレイの姿と重なったのです。
先に言ったように、それはあってはいけない。真実でもない。あの空間にあるのは、2人の互いを想う愛だけ。それ以外のものなく、一切の混じり気などない。
けれどあの日、私にとっては20年も前のあの日、フレイが命をかけてまで届けたくて、けれど言葉は届かなかった本当の想いが、やっと届いた気がするのです。図らずも、重要な点として“図らず”も、相似する想いをラクスが届けたことによって。
そしてそれがキラの救いとなったなら、それはキラとラクスの物語であって、それ以外の何ものでもないのだとしても……フレイの想いが望ましいものであったことの証明であると思うのです。
以上が、私が劇場版「機動戦士ガンダムSEED FREEDOM」において、20年もくすぶらせたわだかまりを解消し、「フレイ・アルスター」について納得できた理由です。正直な所、誤解も甚だしいでしょう。また重要でもない。
けれどだからこそ、あのコクピットの邂逅を見せられ、それに勝手にフレイを重ね、けれどそこにフレイを想起させるものが一切ないことこそが救いだと、勝手に思えたという時点で、私が終わりにしていいことです。
色々な想いがあって、色々な納得がある。いまだ解消されないわだかまりもあるかもしれない。しかし、私個人は20年間待った甲斐が本当にあった。
だからやっと言えるのです。ガンダムSEEDは本当に素晴らしい作品だったし、大好きな作品であったと。そしてフレイが、キラが、ラクスが大好きだったと。
そのことについて、あまりにも大きな感謝の念を抱いています。そして20年間、時の流れの風化にまかせたところはあれど、最初に抱いた感慨を自ら捨てなくて、本当に良かった……。
さて、また長文を書いてしまいました。大事な話はすでに
お終い。けれど、各論で語りたいことが2つあるのです。なるべく手短に。それは写真と「去り際のロマンティックス」についてです。
まず写真について。言及している方も散見される、キラがデスクに飾っている写真について。確かになかなか邪推が捗る内容となっています。もちろん話すのはヘリオポリス組の写真について。
飾られている写真は、いずれもキラにとって大事な人達を写したものです。ヘリオポリス組との1枚があることに、全く違和感はない。けれど、いい写真だと思う一方で、他の写真が正面横並びの人物がはっきりとわかる、記念写真の構図であることを考えると、この1枚のみやや異質です。
写真がない、というのはあると思います。特に1学年上で、ゼミの先輩という立ち位置であるサイが写っているものは少ないでしょう。またアークエンジェル乗船後に、仲間内で写真を撮る時間的余裕も、なにより精神的余裕もなかったことは明らかです。
逆方向に考えて、彼が特に親しかったはずの、トールとミリアリアとの写真ならもっとあるのではないか。というかカズイとも写ってる写真はないのかと(彼が撮った写真と思うべきかもですが)。やはり腑に落ちきらない。
と、両方向から考えると、やはりこの1枚は、キラ・ヤマトという人畜無害そうな少年が、写真フォルダを隅から隅まで探して見つけだし、大切を飾る写真ボードに忍び込ませた男心だと思うんですよね……。後ろ姿の去っていくフレイ。なんという、距離感。
本論であれだけキララクの絶対性を語りながら、やはりこういった邪推を重ねてしまうのはよくないですが、たまらない気持ちにはなる次第です。
そして最後に、「去り際のロマンティクス」について。個人的には、『赤い残像』という言葉の議論には賛同していません。
それは望みすぎですし、むしろそうだった場合のほうが納得できない可能性が高いです(キララクが真に結ばれることが、フレイにとっての救いでもあると妄信しているので……)。
本曲がキラとラクスの曲であることは明白で、ラクスという名の持つ湖のイメージが想起される美しいリリックです。ちなみにPVにおいて、赤い残像という歌詞が歌われているのは、2人の最初の出会い、ポッドから桃色の髪をたなびかせてラクスが飛び出すシーンです(あとピンクちゃんが飛んでいく)。
そう考えると、赤い残像というのはラクスの髪の色であり、桃の残像やピンクの残像では収まりが悪いからなのではと思ったり(シャアのズゴックも“赤い”わけですし、まぁ)。やはりフレイの話だけをしだすのは我儘のような。
ただしこの一曲、それでもなおフレイ推しとしても聞き甲斐のあるものとなってはいる気はするのです。赤い残像は置いておいて、確かに“去り際”というのは、“これからは”の2人に似つかわしくはない。
『通るべき約束だった』、『人生には「それでも」がついてくる』、『もどかしさ』など、後悔を想起させる言葉も多い。これについては、PVにおいては意図をはっきりさせているような気がします。
PV付きの本曲は、わずか3分でSEED序盤の2人の出会いから、ディスティニー最終回までを描く、時間軸においてなかなか長いものとなっています。
転じて、両SEEDアニメ本編のダイジェストでもあるかのようなのですが……実は描かれる登場人物はかなり絞られたものとなっています。
フレイ、アスラン、シーゲル、ミーア。機体をカウントするならばクルーゼ。あとはシンが少し。背景ではもっと多くの人物が登場しますが、多数のキャラクターが織りなす群像劇でもあったSEEDでありながら、はっきりと描かれるのはたった数人なのです。
そして書き並べてみれば、意図は明白と思われます。描かれた4人から6人、そのほとんどが、2人の生き方に大きな影響を与え、そして取り戻し難い喪失をもたらした人物です。
フレイはもう十分でしょう。シーゲルは語る必要もない。ミーアの死がラクスに埋めがたい後悔を残し、けれど戦いを続ける決意の源となったというのも、わかりやすいところだと思います。(小説版SEED FREEDOMで詳しいらしいですね。読まねば)
またアスラン。これはラクスにとってのアスランなのかなと、私は思います。ラクスの真意はキラ以上に読み取り難いのですが、幼少期からの婚約者に悪い感情はないでしょう。
あんなんですが、誰よりも誠実で“強い”男です。(ハロをいつまでも大事にしたり。他にもSEED序盤でキスをねだる程度には、など)
なによりも、ラクスが理想を貫くと決めた後の、ラクスとアスランのシーンが流れるのが印象的です。愛の反対が無関心であり、怒りが愛と遠くない感情であるとするならば、ラクスとアスランの間にも分かち難いものはあったのではないかと。
(ラクスが1個人に対して、公人というより私人として怒りを向けたのは、アスランだけである気がします。そう考えると、SEED FREEDOM中でラクスを語るアスランに対して、俺も劇中のみんなと一緒に笑っちゃったけど、あんがい彼こそわかることもあるのかもしれません)。
そして映画の最後の台詞。まだ映像がないのでうろ覚えですが、“話してください。あなたの心の中にある、どんな小さなことでも”という台詞。そして『私は告白します 去り際のロマンティクス』という歌詞。
ロマン。心が抱く情念。これはやっぱり、2人がそれぞれを作り上げ、そして心の中に遺り続けている傷みや想いを、分かち合っていくということなのではないのかなぁと。
そしてそう結論付けられるのなら、本記事の主題にとっても、『淡い安らぎ』をもたらすものとなる気がします。
2人はこれから、2人だけを理由として愛を交わし、これからを生きていく。けれど、キラの心のなかに、かつてあったことはなくなったわけじゃない。それは確かにキラをつくっている。傷だとしても、今の彼を生かしている。
であれば、もう悩むことはないのかもしれない。そんなことを思うこともできる、素敵な楽曲でありPVでした。
本当のところはわかりません。石川智晶さんがインタビューで語っている、『全く遠い存在であった人物の目線』というのも、本当にわかりません(素直にラクスと思うのですが……)。
ですがそれはいいでしょう。20年経ってたどり着ける感慨としては、なかなか悪くない。だから、そう思ってやはり、勝手に納得する次第なのです。。
以上、なんと合計2万字。1人か2人くらい、読んで共感してくれたなら嬉しいなぁと。あと願うとすれば、グランプリで20位くらいに入ってればいいなぁ。でも一定の人気があるキャラを数えていくと、やっぱ無理かぁと、そのくらいですね。
なので、この記事を添えて、最終投票に臨みたいと思います。これが私の、あまりに長い# フレイ・アルスターに一票! ……というわけでした。