感想レビュー(草原に吹くこえ)

お勧め作品をレビューしています。 本・マンガ・映画・ゲームなどなどです。

考察・特集

劇場版「機動戦士ガンダムSEED FREEDOM」-なぜフレイ・アルスターを納得できるのか-

 劇場版ガンダムSEED感無量でした。複雑な思いもあり、見ることを躊躇していたというのに、冒頭3分でもう泣いていました; 本当に、本当にSEEDの続編を見られるんだと。20年近く待って、本当に始まるんだと……。



 けれど、やはりこのことに整理をつけたいと思います。最も思い入れのある登場人物である「フレイ・アルスター」の描写は、やはりなかった。2,3ある回想シーンも、戦争のトラウマや偏見という文脈であり、彼女をどう納得すべきかというような、人間関係の話はありませんでした


 これについて、けっきょくキラとフレイの関係はSEEDの傍流でしかなかった。重要ではなかったという理解も可能です。そうであるなら悲しいし、そう言われて悩んだ20年後に、再びそうだと突きつけられたのだととしたら、笑うしかありません。




 しかし、どうしてか納得できたのです。鑑賞直後からそうでしたし、数日を経た今でもそう思っています。フレイ・アルスターの描写などなく、キラとラクスがついに深く結ばれる物語において、それに疑義なく“なぜフレイ・アルスターを納得できるのか”


 納得探しの認知バイアスやもしれません。ですが、まとめてみたいと思うのです。(ネタバレ配慮一切ないです)







 まずそもそも論を。個人的には核心とは思っていない。けれど、実際は理由の大方やもという観点として、キラがやっと幸せになってくれたということです。


 書き始めると、やはりここだという気も強くなってきます。そもそもとして、フレイについて私が拗らせた最大の理由は、キラがディスティニーを通じてあまりに幸せそうでなかったことです。




 フレイはその最期に、キラへの無償の愛を届けようとしました。ただ、泣き止んでほしい。ただ、守ってあげたい。そういう想いに至った物語だったと思います。


 であれば、その想いは片務的なもので、もはやキラからの報酬や返答を求めるものではありませんただキラが泣き止んで、笑顔となれば。幸せとなってくれれば、フレイの本当の想いは成就するのです。そして2人の関係は、(最も望ましい形ではないともしても)救いのある帰結にたどり着きます。




 しかしキラが泣き止むことはなかった。貼り付けような笑みを浮かべて、ずっと泣き続けていた。むしろフレイが最初に与えてしまった、呪いばかり残っているかのように、自らを削る戦いを続けていた。


 SEED FREEDOM中でも、キラが「戦って、戦って、戦って……」と、自身のあり方を嘲笑するシーンがあります。フレイが最初にキラにかけた、呪いそのままの言葉……。2人はこのことについて、ついぞ言葉を交わせなかったのに、なぜこんなことばかり。暗澹たる気持ちになりました。





 でもだからこそ、それに続くシーンに心を揺さぶられました。アスランや仲間たちを前にして、やっとありのままの気持ちを吐き出すことができた。そして受け止めてもらえたこれこそ私がずっと見たかった、キラ・ヤマトの姿です。(びっくりするほど泣きました)




 また、キラとラクスがついに想いを通じ合わせたということも、大きな喜びでした。元々、傷つきながらも理想を抱く人物を好む私にとって、2人は少年期の憧れでした。


 しかし、その理想こそが2人の間に影を落としているように見えた。劇場版を通して言語化が容易となりましたが、“必要だから愛する”――実情はとっくにそうではないというのに、その疑念が2人の絆を阻んでいるようでした。




 ラクスがキラを愛した端緒に、それがあったのは事実でしょう。彼女は高い理想を抱く人物です。その点で孤高であり、ともに立ってくれる同志は得難いものだったはず。けれどそのために、心優しい泣き虫の少年が、傷つき斃れたその度に、新しい剣を与え、戦場へ向かわせる結果となってしまった。


 ディスティニーを通じて、ラクス自身がそれを常に後悔しているように見えました。またSEED FREEDOMにおいても、必要ゆえの愛との糾弾を否定しながら、されど深く動揺するのはその疑念が心の中にあったからでしょう。




 けれど、その想いは晴れた。2人は互いへの愛を確信した能力や価値ではなく、力だけが全てでもなく、理解し理解され愛される関係を手にした


 そしてついにキラは泣くのをやめたと言えます。このことが、どれほど救いのある話であったか……。少なくとも私が信じる「フレイ・アルスター」は納得したはずだと、そう思えたのです。




 フレイの描写はなくとも納得できた。その理由の大体はここにあったと思います。20年も待ったのですから、感傷的に言わせてください。


 この描写の時点で、心の中のフレイ・アルスターは、少し寂しそうな表情を残しながらも、深い納得をともなう泣き笑いの表情で、光の粒となって消えていったのです。やっと、本当にやっと……



 ただし、まだ残っている遺恨はあります。不要だと、マイナスだと評されたことに対して、私個人が抱いた感情はなお残り得ます。


 けれど、実際はそれすらもほどけていった。それがなぜだったか。








 1つに、イングリットとオルフェの描写があったかと思います。SNSでは『キラフレIfルート』や、名前の由来への考察等が流れてきていましたが、目にしてなるほどという気持ちがありました。


 確かに、なぜか想起される。想起と言えば、予告段階ではアグネスが話題にあがっていましたし、監督や桑島法子さんの発言からも、元々の狙いはそこにあったはず。(髪の色はフレイ+毛先ラクスでキラの好みなはずとは、相変わらず発想が悪辣だなぁと思いましたが……)
 


 けれど蓋を開けてみると、人物的には一定の距離があったかと思います(桑島さんも全くの別人と認識)。戦争で情緒や人間関係を歪められた少女という点では、アナザーな気はしますし、またルナマリアという恋情が絡まない仲間との交流は、フレイにとっても必要だった、まさにIFルートであるとも思います。

(ミリアリアがフレイを反面教師として憎悪を断ち切ったように、フレイもミリアリアとの交流があればという話を最近聞いて、感銘を受けたりなども)




 しかし、やはりイングリットにこそ私は「フレイ・アルスター」を見たのです。人物像の過程ではなく、その想いの行く末についてですね。


 オルフェはキラと似ていると評されます。能力価値の基準に囚われ、運命に縛られているという点では、確かに2人は共通するところがあります。また、そんなオルフェに対してイングリットが抱く、ありのままを愛したという想いは、SEED終盤のフレイを彷彿とさせます。



 そしてそのように考えると、そんな想いを込めた言葉が、“聞こえる形”で伝えられたというのは、なかなか感慨深いものがありますね……。フレイの最期の言葉について、キラには聞こえていなかったというのは、長年フレイ推しを(というかキラを)苦しめ続けた事象であります。




 なお、イングリットの想いが通じたかについては議論があるようですが、私は通じたと思うことにしています。実際に劇場で聞いたオルフェの言葉には、戸惑いや失望だけでない、期待や親愛が滲んでいる気がしたからです。

(これについては、ニュース記事における下野さんの発言からも示唆はされていると思います。『【ネタバレあり】『ガンダムSEED』下野紘、悩んで収録したオルフェの一言 キラとのシーンは「心の底からニヤニヤ」

 あとネットにあった私見ですが、認識や感情を共有できるアコードにとって、愛の真実性を伝えるのに時間は必要ないと言っている方がいて、素敵な解釈だなと思ったりも)




 そして、想いが通じたのだとすれば、フレイの本当の想いもまたキラに通じるものだった、救いとなりえるものだったと、間接的な証明がなされたとも言えます。少なくとも、そう飛躍する余地はあると思います。


 また、この憶測が正しい可能性があったとして、その上でそれが“救い”として描かれたというのなら……不要や間違いと評されがちなキラとフレイの関係について、“救い”となり得たと描かれたと、思いたくなってしまうのです。



(なお「フレイ」という名は、北欧神話で最も眉目秀麗とされる神、フレイを容易に想起させます。またフレイとは本来尊称であり、その古い名としてイングがあり、そしてそのイングを由来とする女性名こそイングリットである。

 ……という話は、引き込まれそうなほどの説得力を持ちます。ただ、こんな話は監督のツレない一言で簡単に破壊されるので、しばらくは真剣に考えないことにします)








 イングリットとオルフェについてはこんなところです。これで以上、としてもよいのかもしれません。フレイという決して好かれない登場人物の描写を排しながら、けれどその不在が残した心残りを解消してくれた。すでに十分な納得感です。


 けれど、もう少し書き残しておきたいことがあります。そしてこれこそが、私自身が納得を得ることができた、最大の理由であるのです。



 それは、“フレイがいたからこそ”キラは幸せになれたし、その想いは望ましいものだったと確信を抱けたこと。


 そして同時に、今のキラの心の中に、“フレイでなければ”という要素がないことこそが救いなのだという、一見矛盾する認識を両立させられたからです。




 自分でも面倒な執着だと思うので、整理したいです。先日、キラやフレイについて相当な長文を書きました。(『「機動戦士ガンダムSEED」-ネタバレ有で戦争観、キラ vs クルーゼ、フレイを語りたい-』)



 そこでSEED劇中において、キラがフレイにこそ支えられていた時期は確かにあった、フレイがいなければキラの心も命もついえていたと書きました。


 「それでも、守りたい世界があるんだ」という結論になお至り、光指す日を願えたとしたなら、彼女の存在はキラの今につながっている。そうとは思えていたのです。



 けれど、フレイの存在はディスティニーにおいて直視されませんでした。だというのに、キラは泣き止んでいない。それが、“フレイでなければ”を燻らせ続けました。そして、劇場版での描写が同様のものであるならば、その感情は解消されないと予期していたのです。




 でも、そうとはならなかった。確かに表面的には、ディスティニーと変わらず彼女を直接的に語るシーンはなかった。しかし、それでよかったのだと何故か思えたのです。



 望んでいたキラがフレイについて言及するシーンも、彼女を想起するシーンも、キラの心を守っているシーンなかった。けれど、そんなシーンを挟めば、救いは遠のいてしまう。なぜなら、もうフレイ・アルスターはキラの隣にいないからです。


 もう、彼女にキラを抱き上げる手はない。それでも、キラが泣き止むことがフレイの最期の願いなのだとしたら、フレイの不在がキラの心の中で、絶対に癒しがたいものであってはいけない。だから、“フレイでなければ”という描写がないのは、必要条件なのです。




 そのように思えたことが、描写がないことへの納得を得られた理由です。キラとフレイの関係の真実はどちらでもいい。不要なら描写はそもそもいらない。


 されど必要だと仮定した場合においても、フレイの本当の想いが成就することを願うならフレイを想起するシーンがあること自体があまりに大きな障壁となってしまう。だから、よかったと思えたのです。






 しかし、その上でもです。私個人はそれだけでは納得しきれない。そうだとしても、想いはキラにとって望ましいものであったのだと認識したい。けれど、そんな難しい認識を得る余地を、SEED FREEDOMは作ってくれているように思えたのです。


 ここからはあまりに妄言の積み重ね。一方的な発信でなければ憚られるような内容です。しかしそうだと確信できた理由は、ラクスが図らずもフレイと同じ軌跡を辿り、その想いを汲んでくれたような気がしたからです。




 ラクスとフレイという2人は、かけ離れた人物でありながら、キラという少年への想いについて、光と影のような相似と対称を有していると思います。一方は理想と博愛のため、一方は憎悪と復讐のため、必要性を端緒として彼の存在を求めました。


 しかし両者ともに、彼の優しさにふれて想いを変化させていった必要性を超えた、無償の愛を抱くようになった。ほぼ面識もなく、全く異なる2人が、時を隔てて同じように



 一見、最初から無償の愛に見えたラクスの愛も、必要性の苦悩を抱えるものだった。そしてときにキラを苦しめさえするものだった


 それでも、それこそがキラの命と心をつなぐ細い糸だったし、彼を守る想いとなった。そのことが、フレイの想いは決して望ましくないものではなかったと、信じさせてくれたのです。





 そしてやはり、映画というものは、映像こそ雄弁に語りかけてきます。最終盤、プラウドディフェンダーを届けたのち、コクピットに乗り込むラクスの姿その姿がどうしても……どうしても、フレイの姿と重なったのです。



 先に言ったように、それはあってはいけない。真実でもないあの空間にあるのは、2人の互いを想う愛だけ。それ以外のものなく、一切の混じり気などない



 けれどあの日、私にとっては20年も前のあの日、フレイが命をかけてまで届けたくて、けれど言葉は届かなかった本当の想いが、やっと届いた気がするのです。図らずも、重要な点として“図らず”も相似する想いをラクスが届けたことによって。



 そしてそれがキラの救いとなったなら、それはキラとラクスの物語であって、それ以外の何ものでもないのだとしても……フレイの想いが望ましいものであったことの証明であると思うのです。







 以上が、私が劇場版「機動戦士ガンダムSEED FREEDOM」において、20年もくすぶらせたわだかまりを解消し、「フレイ・アルスター」について納得できた理由です。正直な所、誤解も甚だしいでしょう。また重要でもない



 けれどだからこそ、あのコクピットの邂逅を見せられ、それに勝手にフレイを重ね、けれどそこにフレイを想起させるものが一切ないことこそが救いだと、勝手に思えたという時点で、私が終わりにしていいことです。



 色々な想いがあって、色々な納得がある。いまだ解消されないわだかまりもあるかもしれない。しかし、私個人は20年間待った甲斐が本当にあった


 だからやっと言えるのです。ガンダムSEEDは本当に素晴らしい作品だったし、大好きな作品であったと。そしてフレイが、キラが、ラクスが大好きだったと


 そのことについて、あまりにも大きな感謝の念を抱いています。そして20年間、時の流れの風化にまかせたところはあれど、最初に抱いた感慨を自ら捨てなくて、本当に良かった……。








 さて、また長文を書いてしまいました。大事な話はすでに
お終い。けれど、各論で語りたいことが2つあるのです。なるべく手短に。それは写真「去り際のロマンティックス」についてです。



 まず写真について。言及している方も散見される、キラがデスクに飾っている写真について。確かになかなか邪推が捗る内容となっています。もちろん話すのはヘリオポリス組の写真について。



 飾られている写真は、いずれもキラにとって大事な人達を写したものです。ヘリオポリス組との1枚があることに、全く違和感はない。けれど、いい写真だと思う一方で、他の写真が正面横並びの人物がはっきりとわかる、記念写真の構図であることを考えると、この1枚のみやや異質です。




 写真がない、というのはあると思います。特に1学年上で、ゼミの先輩という立ち位置であるサイが写っているものは少ないでしょう。またアークエンジェル乗船後に、仲間内で写真を撮る時間的余裕も、なにより精神的余裕もなかったことは明らかです。


 逆方向に考えて、彼が特に親しかったはずの、トールとミリアリアとの写真ならもっとあるのではないか。というかカズイとも写ってる写真はないのかと(彼が撮った写真と思うべきかもですが)。やはり腑に落ちきらない。




 と、両方向から考えると、やはりこの1枚は、キラ・ヤマトという人畜無害そうな少年が、写真フォルダを隅から隅まで探して見つけだし、大切を飾る写真ボードに忍び込ませた男心だと思うんですよね……。後ろ姿の去っていくフレイ。なんという、距離感


 本論であれだけキララクの絶対性を語りながら、やはりこういった邪推を重ねてしまうのはよくないですが、たまらない気持ちにはなる次第です。






 そして最後に、「去り際のロマンティクス」について。個人的には、『赤い残像』という言葉の議論には賛同していません


 それは望みすぎですし、むしろそうだった場合のほうが納得できない可能性が高いです(キララクが真に結ばれることが、フレイにとっての救いでもあると妄信しているので……)。




 本曲がキラとラクスの曲であることは明白で、ラクスという名の持つ湖のイメージが想起される美しいリリックです。ちなみにPVにおいて、赤い残像という歌詞が歌われているのは、2人の最初の出会い、ポッドから桃色の髪をたなびかせてラクスが飛び出すシーンです(あとピンクちゃんが飛んでいく)。


 そう考えると、赤い残像というのはラクスの髪の色であり、桃の残像やピンクの残像では収まりが悪いからなのではと思ったり(シャアのズゴックも“赤い”わけですし、まぁ)。やはりフレイの話だけをしだすのは我儘のような。



 ただしこの一曲、それでもなおフレイ推しとしても聞き甲斐のあるものとなってはいる気はするのです。赤い残像は置いておいて、確かに“去り際”というのは、“これからは”の2人に似つかわしくはない


 『通るべき約束だった』『人生には「それでも」がついてくる』『もどかしさ』など、後悔を想起させる言葉も多い。これについては、PVにおいては意図をはっきりさせているような気がします。




 PV付きの本曲は、わずか3分でSEED序盤の2人の出会いから、ディスティニー最終回までを描く、時間軸においてなかなか長いものとなっています。


 転じて、両SEEDアニメ本編のダイジェストでもあるかのようなのですが……実は描かれる登場人物はかなり絞られたものとなっています。




 フレイ、アスラン、シーゲル、ミーア。機体をカウントするならばクルーゼ。あとはシンが少し。背景ではもっと多くの人物が登場しますが、多数のキャラクターが織りなす群像劇でもあったSEEDでありながら、はっきりと描かれるのはたった数人なのです。



 そして書き並べてみれば、意図は明白と思われます。描かれた4人から6人、そのほとんどが、2人の生き方に大きな影響を与え、そして取り戻し難い喪失をもたらした人物です。





 フレイはもう十分でしょう。シーゲルは語る必要もない。ミーアの死がラクスに埋めがたい後悔を残し、けれど戦いを続ける決意の源となったというのも、わかりやすいところだと思います。(小説版SEED FREEDOMで詳しいらしいですね。読まねば)


 またアスラン。これはラクスにとってのアスランなのかなと、私は思います。ラクスの真意はキラ以上に読み取り難いのですが、幼少期からの婚約者に悪い感情はないでしょう。


 あんなんですが、誰よりも誠実で“強い”男です。(ハロをいつまでも大事にしたり。他にもSEED序盤でキスをねだる程度には、など)




 なによりも、ラクスが理想を貫くと決めた後の、ラクスとアスランのシーンが流れるのが印象的です。愛の反対が無関心であり、怒りが愛と遠くない感情であるとするならば、ラクスとアスランの間にも分かち難いものはあったのではないかと。

(ラクスが1個人に対して、公人というより私人として怒りを向けたのは、アスランだけである気がします。そう考えると、SEED FREEDOM中でラクスを語るアスランに対して、俺も劇中のみんなと一緒に笑っちゃったけど、あんがい彼こそわかることもあるのかもしれません)。




 そして映画の最後の台詞。まだ映像がないのでうろ覚えですが、“話してください。あなたの心の中にある、どんな小さなことでも”という台詞。そして『私は告白します 去り際のロマンティクス』という歌詞。


 ロマン。心が抱く情念。これはやっぱり、2人がそれぞれを作り上げ、そして心の中に遺り続けている傷みや想いを、分かち合っていくということなのではないのかなぁと。


 そしてそう結論付けられるのなら、本記事の主題にとっても、『淡い安らぎ』をもたらすものとなる気がします。




 2人はこれから、2人だけを理由として愛を交わし、これからを生きていく。けれど、キラの心のなかに、かつてあったことはなくなったわけじゃない。それは確かにキラをつくっている。傷だとしても、今の彼を生かしている



 であれば、もう悩むことはないのかもしれない。そんなことを思うこともできる、素敵な楽曲でありPVでした。


 本当のところはわかりません。石川智晶さんがインタビューで語っている、『全く遠い存在であった人物の目線』というのも、本当にわかりません(素直にラクスと思うのですが……)。



 ですがそれはいいでしょう。20年経ってたどり着ける感慨としては、なかなか悪くない。だから、そう思ってやはり、勝手に納得する次第なのです。。




 以上、なんと合計2万字。1人か2人くらい、読んで共感してくれたなら嬉しいなぁと。あと願うとすれば、グランプリで20位くらいに入ってればいいなぁ。でも一定の人気があるキャラを数えていくと、やっぱ無理かぁと、そのくらいですね。


 なので、この記事を添えて、最終投票に臨みたいと思います。これが私の、あまりに長い# フレイ・アルスターに一票! ……というわけでした。


「機動戦士ガンダムSEED」-ネタバレ有で戦争観、キラ vs クルーゼ、フレイを語りたい-

 ほぼ20年ぶりにガンダムSEEDの続編が出ます。これは当時、傷つけられたに近しいほどの感情を与えられながら、しかし完結とは言い難い場所で放り出された私にとって、あまりに衝撃的なことです。



 いまだ劇場には足を運べていません。少しの恐怖と、待ったゆえの惜しむ気持ち。それを少しでも解消するため、文字にして落ち着きを得たいのです。語りたいことは、「なぜ容易には受け入れられなかったのか」「キラはクルーゼに言い負けたのか」、そして忘れがたい「フレイ・アルスター」という登場人物についてです。





 数値的な裏付けは労を惜しみますが、「機動戦士ガンダムSEED」人気を博した作品でした。潮目が変わったとすら思えたものです。


 しかし同時に、なぜかシリーズのファンほど否定的であった気がします。いや思い込みかもしれず、今ほど情報が大量に入手できるわけではなかった。それに本当にコア層の多数派が否定的なら、作品の人気は拡大し得ないはず。



 けれど、私が語りたいのはそこからなのです。それが幻影だとしても、まずはそれとの勝負を終わらせてからでないと、落ち着いて劇場版に臨めない。ではなぜだったのか。それを私は、“戦争観の違い”と解釈することにしています。





 ガンダムお茶の間に戦争を持ち込んだ作品でした。スーパーロボットにもシビアな世界観があり、超人気作に限定しても「宇宙戦艦ヤマト」がある以上、妥当性には疑念もあります。しかし、人類同士の総力戦という風に言い換えれば、そこに特徴の1つがある。


 “正義”が掲げられながらも、正義が存在するとは思われない戦争。それに否応なく巻き込まれる若者。その成長と達観。そして叶うべくもない、逆説的に切り出される非戦の願い。それがファースト・ガンダムがもたらした、宇宙世紀の戦争でした。



 転じて言えば、宇宙世紀の戦争観はリアリズムであると言えます。戦いとは、権力者の野心と政争の産物であり、争われるのは国家と国家の利害、そして存亡。非常にリアルな戦争観です。(民族自決的な要素もありますが、今回は置かせてください)





 ゆえに、ガンダムSEEDの戦争は“リアル”じゃない。これが批判の軸の1つであったように思います(少なくとも私が言われた)。


 SEEDの戦争は国家間対立ではありますが、その構図は後半に向かうにつれ溶解していきます。対立軸はコーディネーターとナチュラルというSFであり、現実に即したものではない。




 しかしこの戦争観を、身に迫る現実として感じたのです。なぜなら現代の戦争は、リアリズムでは説明しきれない。イデオロギー対立であり、宗教紛争であり、民族対立である。これらはリアリズムの表層としても理解し得ますが、やはりそれだけとは思えない。


 もっと人の心に根ざした、嫉妬、恐怖、軽視、自己愛、自らとは異なる存在への嫌悪感……そして、それが争いを生んでしまった後の、消し難い怨恨。現代戦はあまりにナラティブです。リアリズムが描く、上からの戦争だけではない。




 そんな戦争観こそ、コズミック・イラが描こうとしたものだと思われます。戦争は人々の憎悪の積み重ねであり、政治的・経済的利害など凌駕していく。権力者は受託された煽動家であり、憎悪という氷山の一角に過ぎない。ゆえに、どこまでも止めようがない


 陰謀論と不寛容に蚕食され、敵視と排他のみをぶつけ合う形に、民主政治が崩れていく様を見ている昨今においては、なおさら一層にですね。


(コズミック・イラの設定としてある、“ナチュラルにだけかかる感染症”と、“プラントが即座に開発したワクチン”と、それがもたらした陰謀論という設定など、なんの冗談かとすら思いますね。一方の戦争という観点では、ここ20~30年の戦争学を嘲笑うかの如く、リアリズムの世界となってはいるのですが)


 

 以上のように、ガンダムSEEDの戦争観は、宇宙世紀のリアリズムに留まらない、より現代的なものだったように思います。またこのような世界を描くに当たって、国家や民族、宗教という切り口を排した点も秀逸だった思います。現実との近しさは、どうしてもノイズとなってしまう。



 ただ、だからこそ受け入れ難いところもあったのではないかと。今までと違う作風。しかしもそれを、SEEDはリスペクトを持ちながらも挑戦的な姿勢で行っています。中盤までの展開は、多分にファースト・ガンダムをなぞるものであり、人物や勢力の配置や、演出・映像面も近しい。



 けれど、その上で違った戦争観や答えを導き出そうとした。それで広く、今までと異なる層に受け入れらた。なかなか複雑な想いを生むものだったのかもしれません。個人的には、なんとも世知辛いとも思うのですが。




 もちろんもっと単純に、感傷的でセンセーショナルな人物描写が反感を得たという話でもあるでしょう。あと戦争の終結を得るのに、より大きな力を用いたという点は、確かにテーマ上の弱点です。(特にそれはDestinyで表出したわけですが)。



 とはいえ、“SEEDの戦争はリアルじゃない”。20年近く前に見聞きしたこの評価に対して、とりあえず戦争観の話をしたかったのです。


 その答えとして述べたいのは、“SEEDの戦争はあまりにリアルだった。現代においては、なおいっそうに”です。それが私がガンダムSEEDに感銘を受けた理由であり、今日まで好きでい続けている理由でもあります。






 戦争観については以上です。それでは次の話。これもまた私個人の幻影との戦いですが、よく言われたことがあります。それは、“最終決戦において、キラはクルーゼに言い負けた”という内容です。


 確かにそうやもです。第一に、あの作品の(なんならこの前提は外してもいい)世界において、“クルーゼの言葉は真理を表しているように聞こえる”。第二に、“キラは個人の感情しか提起できなかった”



 ですが、本当にそうなのか。まず第一から参りましょう。あまり感傷的に語ってもあれなので、乱暴に断言しますが、確かに世界は滅ぶべきものとも思われます。


ーーーーー
『他者より強く、他者より先へ、他者より上へ!』

『競い、妬む、憎んでその身を喰い合う!』

『自ら育てた闇に喰われて人は滅ぶとな!!』


「機動戦士ガンダムSEED」第49話「終末の光」より引用
ーーーーー



 クルーゼは争いの理由を人の心に帰結させています。より先へと望む心。必然的につきまとう利己心嫉妬心。それらは敵愾心を呼び、恨みを育てて、終わりのない争いが続きます。



ーーーーー
『これが定めさ! 知りながらも突き進んだ道だろう!』

『正義と信じ、解らぬと逃げ、知らず! 聞かず!』

『その果ての終局だ! もはや止める術などない! そして滅ぶ、人は! 滅ぶべくしてな!』


「機動戦士ガンダムSEED」第50話「終わらない明日へ」より引用
ーーーーー



 滅びの手段が特に具現化しているコズミック・イラにおいては、相当の説得力をともなって聞こえます。確かに世界は滅びるべきかもしれない。滅びるに値するような、嫉妬と憎悪を積み上げるばかりの歴史であるならば




 そして第二の観点ですが、キラはクルーゼのこの語りに対して、効果的な反論はできていません。基本的には叫んだり呻いたりするばかりで、問答にすら至っていないとも言えます。


(少し冗談めかしますが、上記の理論はクルーゼ個人の人生において観察された事象に過ぎない、いわゆる“それってあなたの感想ですよね”という、レスバの禁じ手をキラが振りかざすシーンもあります。しかし、これも知らぬさ!……と開き直られ、押し切られてしまいます。)



 その上で、キラは最後の叫びとともにクルーゼを打ち倒したわけです。こうなると、やはり言い負けたようにも見える。けっきょくクルーゼの主張が証明され、それをキラは力と勢いで押し返したに過ぎないのか?





 いや違うと。これについては、他よりも強く主張したいのです。理由としては、まるで盤を動かすかのようなアコギな主張かもしれませんが、重要な前提があります。



 実はクルーゼは、この主張をただ証明するだけではダメなのです。それに関し、他者の同意を得なければいけないのです。構造主義的な他者承認の話ではありません。他ならぬ、クルーゼ自身がそれを己に課しています




 ストーリーを思い返してみましょう。本作の展開において、クルーゼは数々の暗躍を果たしました。パトリック・ザラ躍進に向けた戦火の拡大。オペレーション・スピットブレイクに関する情報の漏洩。Nジャマーキャンセラー技術の提供。


 しかし、着眼点として有名所でもありますが、これら破局的な事態をもたらした出来事に関し、彼自身が最後の決裁をなしたことは1度としてないのです。彼はあくまで教唆を行うのみ。トリガーを引いたことはない。



 パトリック・ザラが議長に選出されたことも、ブルーコスモスが大きな影響力を持っていることも、人々の総意です。サイクロプスを用いた非人道的作戦も、プラントへの核攻撃も、ジェネシスの発射も、彼が端緒を示唆した破局でこそあれ、決めたのは彼ではない



 もっとも典型的なのは、Nジャマーキャンセラーのくだりでしょう。まるで神にサイコロを預けるが如く、彼はその顛末に確実性を求めませんでした。また、ムウに討たれるならばそれはそれで良しと発言するなど、彼は自らの謀略をどこか他人事としています。




 その理由はひとえに、彼は“世界が滅ぶべくして滅びるところが見たい”からだと思われます。“滅ぼしたい”ではありません。実際の行動は近似するとしても、精神的には大きく異なる。



 つまり証明と承認が必要なのです。彼は争いの理由を競争心嫉妬心、そして憎悪という人の心に帰しています。そしてそればかりを積み上げる歴史であるゆえに、世界は滅びるべきとする。



 これは逆を言えば、“そればかりの世界でないのなら、滅べるべきではない”となります。そして“そればかりの世界”を証明するのは、あくまで他者の選択と行動であり、クルーゼ1人の決断ではありません。全員とまでは言いませんが、概ね総意と言って良い程度には、他者を交えた証明と承認が必要になるのです。




 これが迂闊か迂遠とすら思えるほどに、彼が自身の謀略に他者を介在させた理由だと思われます。つまり、主張を一方的に証明して終わりとはできない。他者を交えた形で、同意のもと証明されなければならない。




 以上が触れておきたい前提です。これを踏まえれば、キラとクルーゼの戦いの意味も変わってくると思います。けれどそれを語る前にもう一息、別の検証可能性をまとめておきます。



 私は、クルーゼは滅びの証明のため、多くの他者の承認を必要としていると考えます。しかし一方で、確かに彼自身の判決のみで、それを為してよいと語るシーンもあったりします。



ーーーーー
『私にはあるのだよ! この宇宙でただ一人、全ての人類を裁く権利がな!』

「機動戦士ガンダムSEED」第45話「開く扉」より引用
ーーーーー



 メンデルでの発言です。彼は他者不理解の究極とも言える、アルタ・フラガの妄執が生んだクローンです。彼は自身を、愚かな世界の体現と捉えており、ゆえに世界の救いがたさは証明済みと語る節もあります。



 科学技術の発展と、人間の度し難さの果てに生まれた孤独な生命。誰と分かち合うこともできない。未来を望むこともできない。世界を呪うことしかできない。ならば、世界の底から全てを俯瞰して、裁きを下せるとうそぶくのも分からなくもない




 ……しかし、これもまたクルーゼ自身が前提を変えていくのです。彼はもう一人見つけてしまったのです。底とは言えず、むしろ天頂から、されど誰とも分かち難い孤独を抱え、明日を呪う他ないかもしれない存在を。



ーーーーー
『進歩の名の下に狂気の夢を追った、愚か者達の話を。君もまた、その息子なのだからな』


『在ってはならない存在だというのに』

『故に許されない、君という存在も!』

『それが人だよ! キラ君!』

『まだ苦しみたいか! いつか、やがていつかはと、そんな甘い毒に踊らされ、一体どれほどの時を戦い続けてきた!?』

『君とてその一つだろうが!』


「機動戦士ガンダムSEED」第45話「開く扉」第50話「終わらない明日へ」より引用
ーーーーー



 クルーゼがキラに特別な地位を与えていたことは、台詞を追えば明らかです。了承を本当に得たかったかはわかりませんが、彼はキラにこそ滅びの同意を得ようとしています



 それは彼が、キラという存在を自らと真逆であり、ゆえに最も近しい存在と捉えていたからだと考えます。そしてその心を挫き、自らと同じところまで堕とそうと、執拗に言葉を重ねている。



 そう考えると、彼が自分自身を、世界を裁く権利を持つ者と捉えていたとして、その権利を最後まで自分1人のものと考えていたかと言うと、疑問であるように思うのです。彼は最期に、やはり他者の同意を求めた。しかし、そうであるならば



ーーーーー
『それでも! 守りたい世界があるんだ!』

「機動戦士ガンダムSEED」第50話「終わらない明日へ」より引用
ーーーーー



 これほど鮮やかな反証はない、と思うのです。まず上で述べた、クルーゼがキラに求めた同意への明確な反対です。彼と同じく、世界の端に産み落とされ、実際に多くの苦しみを抱えたキラは、なお明日を信じた。それでも世界を守りたいと願った。それ自体が、クルーゼの語る“裁く権利”への深刻な疑義です。




 また、キラの剣が最後に届いたということもまた、世界としての反証です。先に述べたように、クルーゼの願いは“滅ぶべくして世界が滅ぶこと”です。ただ滅べばいいというものではない。



 キラの決死の反撃は、多くの祈りと行動に支えられたものです。不理解も多かったとは言え、なお彼が愛着をいただいたアークエンジェルオーブの遺志ラクスと、私はそうだと思うもう1人の少女の想いが、彼の命と心を繋ぎ、最後の一撃を導いた



 であれば、世界は競争心と嫉妬心、そして憎悪のみが積み重なるものではない世界の滅びは総意ではない。例え小さくとも、第二次ヤキン・ドゥーエ戦という重要な戦局において、世界で最も孤独な少年を奮い立たせる程度には、そうでない世界があった。ここに、クルーゼの“滅ぶべくして滅ぶ世界”という証明は、反証されたと思うのです。





 ……まぁ、我ながら強弁とも思っています。だいたいこの理論を唱えるためには、クルーゼが謀略の失敗を確信したという帰結が必要となります。ヤキンの自爆とジェネシスの発射が連動していることを知っていた彼は、ジェネシスは発射されたものと認識して死んだと考えるほうが自然でしょう。



 しかし、なぜかそうとは思えないのです。仮にジェネシスは発射されたと思ったとしても、なおもしかしたら世界は滅ばないかもしれない。終わらない明日はあるのかもしれない。そう認識して、彼は死んだように思うのです。彼が不思議と、腫れ物が落ちたかのように、穏やかな笑みを浮かべて逝ったことを思えばこそ。




 以上が、キラ vs クルーゼの問答において、キラは決して言い負けていないと私が思う理由です。ただ、これが詭弁に過ぎないとしても、なおキラの返答は美しいと私は思います。


 滅ぶべくと思える世界。理性的に考えればこそ、そのように考えてしまう。それを超えて、守りたい世界があると叫ぶ帰結こそ、私が「機動戦士ガンダムSEED」を深く愛した理由です。この話については、ここまでといたしましょう。










 さて、最後にもう一つだけ。これが最後の幻影との戦い。いやこれについては、別に戦えるとは思っていません。20年を経て、ギル議長以上の年齢になっても、いまだにナイーブになってしまうこと。私は本作の登場キャラクター、フレイ・アルスターが大好きでした。



 彼女が嫌われることは仕方ありません。また恐らく作品において、その役割が期待されてもいたでしょう。身勝手な行動で展開をかき回し、悲劇性を高め、他人を深く傷つける。根本的な自分本位さ、ヒステリックさも好まれるところではありません。



 けれど、それでも私は、彼女がたどり着いた祈りに、深く心を動かされてしまったのです。嫌われるのは仕方ない。でも、彼女はキラの理解者であったし、キラにとって彼女も大切な存在であった。不要だったとは、思わせられたくないのです。




 アニメの前半においては、彼女を好意的には感じていませんでした(むしろサイに共感するところが強かった)。しかし後半にかけての彼女の姿に心惹かれ、最終話で強い印象をうえつけられました。


 その印象は、小説版の丁寧な心理描写を読んでさらに深まり、けっきょく彼女は私にとって、最も拘りの強いキャラクターの1人となりました。(なお余談ですが、エアリス、美樹さやか、フレイ・アルスターとなります)





 私が彼女に強い感情を抱くのは、その変化の過程が美しいと思うからです。また、心が変化し得るというのは、本作において救いであり、希望でもあるとも思います。



 彼女は父を失い、コーディネーターを憎み、それを非情にもキラにぶつけた人物です。その立ち回りは常軌を逸するもので、キラはそれに飲み込まれ、戦いに駆り立てられ、そして深く傷つきました。


 彼女はこの不当な復讐のため、誰より早くキラの本質と傷みに気づいています。コーディネーターもナチュラルもない、という許容では到底包みきれない彼の孤独。敵とも思えない相手を撃つ悲しみ。それを踏まえてなお、周囲の人のためにありたいという彼の優しさ。



 これらを深く理解して、寄り添って……そして、いつしかそれに絆されてしまった。ここにフレイ・アルスターという登場人物の、単純には割り切れない立ち位置があります。(マリューもまたキラへの理解が深い人物だと思うのですが、彼女には大人として、そして上官として一線を引く部分はあったと考えています)




 そしてキラとフレイは離れ離れとなります。その後の彼女の不安と孤独、この辺りの描写は小説版のほうが詳しいです。孤立無援となり、図らずも戦いの最中に身を置き続けることとなった彼女。そんな状況下で、かつて戦うことを選んだ学友たちの強さを、そしてキラの優しさを、改めて彼女は理解します。



 後悔を重ね、知らずとは言え核の鍵をもたらしてしまったことへの自責の念から、自身の生きる価値する見失いかけます(ちなみにこの場面で、核攻撃が“自分と年齢が変わらないようなザフトの少年兵たち”の命を奪い、プラントの破壊を招くものであることに慄然とする描写があります)。



 しかし彼女はまだしばらくは生きていたいと願う。キラにもう一度会って、謝りたい。ただそのために、彼女は恐怖を抱えたままドミニオンのブリッジに立ち続けました。その帰結は、あまりに悲しいものとなりましたが。





 そして死が訪れます。けれど、彼女が発した最期の想いは、かつての彼女からは想像もつかない、深いものであったように思います。



ーーーーー
『でも今、やっと自由だわ。とても素直に、あなたが見える』

『だから、泣かないで』

『あなたはもう泣かないで』

『守るから。本当の私の想いが、あなたを守るから……』


「機動戦士ガンダムSEED」第50話「終わらない明日へ」より引用
ーーーーー



 無償の愛だと、言って良いのではないかと思います。私はこの言葉に、どうしても涙してしまいます。憎しみから始まり、それが理解に転じて同情となり、昇華して無私の想いとなる。この変化の美しさこそ、私がフレイ・アルスターを忘れられない理由だと思います。





 また、想いが転じたことの先に、あり得たかもしれない未来に感じる切なさもまた、彼女へのこだわりを強くさせます。キラにとってもまた、彼女は世界につなぎとめられることになった細い糸であり、救いとなった存在ではなかったのかと。



 以外にも独白の少ないアニメ本編において、キラの本心を窺うことは難しいです。また小説版においても、キラとフレイのシーンはフレイ視点であることが多く、けっきょくのところ勝手な考察を行うしかありません。




 しかし彼の心と命を繋いだ、とは言えると思います。いえ、フレイの画策がなければ艦を無事に降りられていた可能性もあります。


 また、仮に繋いだと言えたとして、それがキラの幸せであったのかという議論が成立し得るほどに、結果としてキラは苦しみ続けました。されど、キラが最終的に世界を守りたいと定義し得たことを思えば、その意味はあったはず



 キラはフレイに対して、傷つけた人、守ってあげなくちゃならない人と語るシーンが多いです。一方で、ぬくもりにすがった、なぐさめてくれたと語る描写もあります。この言葉の選択から類推すれば、最も精神的に追い詰められた時期にあって、彼女の存在は支えではあったのでは。


 特に“みんなを守らなければならない”という重圧に押しつぶされ、それでもなお“守れなかった”結果を直視することになった彼にとって、例え偽りでも、重圧をより深める言葉だとしても、“守るから”という言葉は、救いだったんじゃないかなぁと……そう思います。




 憶測を重ねますが、オーブでのやり取りをみる限り、フレイの真意をキラは察していた気もします。フレイの豹変とも言える態度の変化に、彼は驚いた様子を見せません。また間違ったという言葉は、単純な男女の関係の始まりを指したとも思えません。


 そしてそれでも、ストライクの中を寝床とするようになったとしても、なおフレイに優しさを投げかけようとしたことは、帰ってから話そうとしたことは、そこに本当は別の想いが生まれていたと……もはやこれは信じたいの領域ですね。





 とはいえ終盤の展開は不思議です。ここまで挙げた邪推が、私個人としては間違ってないのかなと思ってしまいそうになる描写もあるからです。



 『FIND THE WAY』はSEED第4期を彩る名曲だと思うのですが、先般リマスター版を視聴して驚いたことがあります。4期EDは基本的に『Distance』に差し替えられており、『FIND THE WAY』は2回しか流れません。当然1回は最終回。そしてもう1回は、キラとフレイが束の間の再会を果たす「たましいの場所」です。





 そう思っても、いいんでしょうか……? いやラクスとキラの曲というので間違いないとはわかっています。最後のシーンでキラが涙を流すのはラクスの膝の上です。(ちなみに小説版だと、彼女だけはゆらがずに、あるがままの自分を肯定してくれると語っています。なので私の妄言はおしまいなのかもしれない



 けれど、けれどこの心優しい泣き虫の少年の、進んだ先に光があることを祈る曲が、キラとフレイの哀しくも寄り添いあった日々を振り返りながらも流れるというのは、ほんの少しだけでも重なるところがあるのだと……


(先日、劇場版の舞台挨拶で、「ラクスを演じられるのはフレイができる人だけ」と両澤千晶さんが書き残されていたと聞きました。二面性の演技というだけの話かもしれませんが、このコメントは、私の長年の胸のつかえを少し晴れさせてくれたような気もします)





 また最終話(この記事を書くために見返してあまりに辛いのですが)、キラが力だけが自分の全てではないと叫び、他者から理解してもらえることはないとクルーゼに突きつけられていたとき、画面に写るのがフレイであるというのは……どちらの意味なんでしょうかね



 もちろん私は、理解してくれたかもしれない人と、思うことにしています。ゆえに、クルーゼの非情な一撃に意味が出てくるわけですし。もしかしたらは失われ、やはりキラは孤独なのだと突きつけられるシーンだと思いますので。(クルーゼが撃った事自体の真意はわかりませんが、演出としてですね)


(再び脚本家の言葉を思い出すと、「本当にキラを理解していたのはフレイだけ」という発言もあるそうです。ただこれ、ある程度の数の人が言っていますが、出典がわからず; 長年すがってきた言葉なので、実際のものだと思いたいのですけどね)




 そしてもし彼女が生存していたら、本当の想いが伝えられていたら、2人はどうしたのでしょうか。2人が消し難い後ろめたさを抱えたまま、けれど明日へと歩みをとめず、ともに進んでいく姿も見てみたかった……と言わないようにするのは、ウソでしょうね。





 以上でしょう。フレイが嫌われるというのはわかる。けれど、キラとフレイの間にも大切な繋がりはあった、なかったことにはなってほしくない、そういう話でした。



 ガンダムSEEDのテーマにおいても、なかなか救いのある軌跡だと思うのです。自分本位で、他者を理解しようとしない排他的な少女が、戦争の中で憎しみを得て、けれど優しさにふれて優しさを返さずにはいられなかった



 まさに、世界はクルーゼの言うような、嫉妬と憎悪だけじゃないということ。変わり得る、救い得る世界でもあるんだと、そんなことを染み染みと考えさせてくれる、大好きな2人でした。続編で語られることはなかったというのは、本当に残念ではあるのですが。





 さて、というわけで劇場版は怖いのです。なかったことになっていることが怖い。語られないことが怖い(自然と流れてくるネタバレを見る限り、やはりそうである予感ですし)。


 けれど文章にしてすっと気が休まるところもあって、けっきょくのところ、自分で思ったように解釈する余地はある。そう思いたいのだから、そう思うことにする。そうしたいのならそれしかない。




 実はここまで書いといてあれなんですが、僕はキラとラクスの関係も好きなのです。これはわりと素直に、キラとラクスが幸せになるということが、フレイ推しとしても真に救われる展開なのだ思っています。その点では、20年ぶりにやっと辿り着ける物語があるはず。


 でも一言だけでも名前をつぶやいてほしいような……。いやそうでないような……。後は心の中の最終話フレイ・アルスターを信じて、劇場版に臨むしかないようです。泣いても笑っても、20年間くすぶり続けた感情を整理するためには、見る他ないのですから。








(おまけですが、フレイのことを書くために小説もじゃっかん読み返しました。すると、こんな一文があるんですね。



ーーーーー
 あたたかな手が頬に触れたような気がした。無力さと孤独に泣き崩れたキラを、かつてなぐさめ、涙をぬぐってくれた手が――

「機動戦士ガンダムSEED」5巻「終わらない明日へ」P388より引用
ーーーーー



届いている……!

 見えていないし聞こえてもいない。そうかもしれません。監督が言うならそうなんでしょう。あくまで小説版は小説版です。


 けれど、なにかが最後に届いて、乱す風に負けぬように、言葉なくとも飛ぶ翼はなくても、抱き上げる手はなくとも、キラに光指す日を願う力を与えたんだと、そうなんだと……思いたい、のですよね。


 見落としていた一文を見つけられたというだけでも、この文章を書いて、良かったのかもしれません)

「すずめの戸締まり」-衰退と災害、しかし喪失をうわまわる日常への確信-

 「すずめの戸締まり」を観たときに生じた心の動きは、上滑りしていくことのない、どこか痛みを伴うものだった気がします。明白に11年前の震災を描いた本作を、そう捉えていいのかに疑念はあります。



 ただ、あったはずの景観や繋がりの喪失を、惜別や死別を、そしてそれらへの不安を抱えた人を、本作は狙いを定めて飛びかかってくるかのようです。しかしあとに残る感情は、おそらくきっと、前へと歩んでよいのだと思える解放感



 生と死が紙一重かもしれない不変では間違いなくない。けれど日常は回帰するという確信と祈りをもって、本作は見る人に希望を語りかけます。それが残酷さに近しいのは事実かもしれません。今作において新海監督は、あまりに恐れを振り切り真剣です。




 少しずつ変遷をとげてきた、けれど一貫して描かれ続けてきた新海作品のテーマの、明確性の点で本作は集大成でしょう。景色の美しさはもはや前提で、廃墟を中心とした朽ちゆく物のあわれさも目を引きます。



 不発に終わったと言われがちな、「星を追う子ども」が目指したロードムービーとしてのおもしろさも、本作は果たしました。最高傑作かと聞かれれば、そう答えるかもしれません。ただ、だからこそ“集大成・最高傑作”という言葉ではまとめ難い、鮮烈な印象もありました。



 解釈がわかれそうな部分も多く、語ってみたい気持ちになるわけです。前半ではレビューとして、後半ではネタバレ込の考察として、久々に記事を書いてみることにします。








 本作はボーイミーツガールに類するものとして、少女と青年の邂逅から始まります。抗いがたい胸騒ぎから、町外れの廃墟に訪れた少女:岩戸鈴芽は、幻想的な空間へとつながる不思議な扉を目にします。


 その扉は、人の思いが失われた土地に現れ、彼方の地に蠢く厄災の通り道となってしまう“後ろ戸”。もはや摩耗し開きかけていたとはいえ、すずめはその扉を開けてしまいます。


 扉を締めるため、閉じ師の青年:宗像草太が現れ、からくも2人は厄災を防じます。しかし不思議な猫の呪いを受けた草太は、すずめの所有する子ども椅子へと憑依させられてしまいます。逃げる猫を追いかけて、二人の旅が宮崎から始まり、愛媛から神戸、関東、そしてその先へと続きます。




 あらすじにまとめれば現れてくるように、本作はかなり民俗学的です。宮崎といえば高千穂峰を有する天孫降臨の始まりの地。岩戸は天岩戸、すずめはアメノウズメの連想ですね。


 もしかしたら宗像という名字もそうかもしれません。九州の人ならすぐにわかる、海上・交通の安全の神を祀る宗像大社が思い浮かびます。(こちらはパンフレット等には言及はなし)




 しかし、これらの要素に物語は拘泥せず、ファンタジーはあくまで舞台装置として機能したように思います。展開の鍵となる厄災の源についても、目的も意思もなく暴発する力と表現されており、深入りはされませんでした。しかし、だからこその“つかみ取りやすさ”があります。


 多くの人が知っている神話で端緒を掴み、そこから感覚的に世界観がつかめるようになっているわけです。平野に乏しく、山川に接し、時に大自然に圧倒される国土。それは借り物であり、手入れを忘れればたやすく壊れてしまうことを、観る人は説明されずとも“わかる”はず


 「すずめの戸締まり」は、一見 伝奇的であるものの、実際は非常に市井の感覚通りの世界です。その点で、現実の虚構への置換、ファンタジー化は最小限だと個人的には思います。もしかしたら、過疎化と防災インフラの劣化にさらされている今日においては、いっそう現実的かもしれません。




 ただ、そういう共感については、もっと深刻で、言及し難い要素のほうが重大です。それはより切迫した同時代性。あの無機質なアラーム音により、あまりにたやすく呼び起こされる恐怖です。


 あの震災を共有したということを、語っていい人の是非は、なおセンシティブなことです。しかし、それ以外の震災や豪雨も含め、災害への恐怖を共有できない人は、近年少なくなっているはず。また繰り返し伝えられる、次なる激甚災害への不安は、もはや国民において普遍です。


 人の営みや想いとは無関係に、災害は突如として訪れる。日常は紙一重の息災でしかない。そのことを「すずめの戸締まり」を観た人は、容易にわからさせられてしまいます




 本作が持つ最大の強みも、そこにあると思われます。語られずとも納得してしまう、身に染みついた感覚。もしかすると、意識されない宗教観。それを手がかりとして、本作は観る人の心を、強く作品の中へと引きずり込んでいきます


 そしてだからこそ、本作のありきたりでいながら強く誠実な、そして残酷なほど明白な結論が、心を震わせるほどに響くのだと思います。詳しくはネタバレ有の後段で語りたいですが、深刻で重いテーマに対して、本作の描く結論は、少なくとも真摯で真剣であったと思います。







 さて、その一方、この設定としての親和性は、世界観の“身軽さ”を生み出しており、そのまま本作のロードムービー的なおもしろさに繋がっています。そう今作は、新海作品において突出して動的です。


 新海作品は静的で精神的であると言って、反対する人は少数派でしょう。もちろん「ほしのこえ」や「雲のむこう、約束の場所」は戦争描写もふくむSFですし、「君の名は。」「天気の子」も躍動感が意識された活劇でした。人物が動かないわけではない。


 しかし、やはり作品の本質はモノローグと会話であり、理性が結論を導く対話劇でした。ただ一作、成功作とは言い難い「星を追う子ども」を除いてですね。本作はその点で、「星を追う子ども」のリベンジであり、それに大きく成功したと思われます。




 世界を語ることはほどほどに、舞台はあっという間に移り変わります。船に乗り、鉄道に乗り、車に乗り。また行く先々での出会いと、その土地の日常と想いが描かれていきます。本作には、その余裕があるのです。


 本作は民俗学的な世界観をまといつつも、同時代性を担保にたいへん掴みやすい設定を有しています。だから、説明のための尺を大きく縮小することができるし、多少無茶な展開を導入したとしても、修正力があります


 すでに指摘が見られるように、本作の展開にはやや飛躍が散見されます。しかしこれについても、個人的には作品のリズムを壊すには至っていないと考えます。


 不用意に神に近づけば、暗い想いを引きずり出されること。その一方で、この国の神や仏は、雪の日に傘をさしただけで報いてくれるような人好きで、そしてどこか寂しさをたたえた存在であること。知っていると思います。だから、勢いのある間は腑に落ちはする




 一方で、当たり前のことこそ本作は雄弁に語り描写を割きます。とりとめのないおしゃべりが楽しいこと。食事が美味しいこと。空気が重ければ音楽を聴きたくなること。いってきますといってらっしゃいを言うこと。日常の一端です。


 想いを伝える言葉も、理性のモノローグで洗練させた、簡潔なセンテンスにはなりませんたどたどしく、繰り返しがあり、あからさますぎて、ときに脈絡を失う。吹けば散らばってしまいそうな、言の葉のつらなり。けれど、だからこそ真心に近くなる




 けっきょくのところ(物書きの端の端くれとは言え辛い話ですが)、文章と思考だけじゃ上滑りするのです。身体の動きと心の動き、そこから自然につむがれる言葉。それらに焦点を当てた本作は、とかく身体的かつ動的です。


 ……なんというか、やっぱすごい会話してなかったと思うんですよね。おしゃべりは多いのですが、会話は少ない。でもいちばん大事なことは言葉にする。ファンとしては、少なくとも秒速からは隔世の感があります。




 とはさておき、今作はその内容面において、災害による喪失という深刻なテーマを内包しながら、伝奇性と同時代性によってわかりやすさを維持し、かつ動きのあるロードムービーとしてのおもしろさも達成しています。


 しかしそのエンタメ性は、テーマをないがしろにするものではなく、むしろ日常が滋味深いことへの確信として、結論をささえるものとなっています。あとに語りたいのですが、その結論の辛いほどの明白さと真摯さとあわせて、本作を高い水準点でバランスをとった傑作だと個人的にはレビューしたいです。







 内容についてはいったん区切りましょう。本作を支える要素として、映像と音楽もかかせません。むしろこの2つこそ、新海作品の真骨頂でしょう。ただ今作については、もはや主役ではなく、されど作品に不可欠な要素となった印象を受けました。


 今作の映像はもちろん美しいです。空と水の2つの青さ。緑の新鮮さ。金属の光沢。街並みの無機的でいながらにおい立つような有機性。今作はさらに、廃墟を主題として崩壊の叙情が取り込まれており、集大成にして新たな挑戦というので間違いないと思います。


 けれど、新海作品中では、かなり大人しかったのではないでしょうか。監督もどこかのインタビューで、“空を描くのも飽きてきた”に近い趣旨のことを言っていましたが、こだわりは乏しかった気がします。あくまで背景。その魅力がストーリーから独立して語られがちなほどの、前面に出てくる主役ではない




 されど、監督が積み重ねてきた映像面でのこだわりが、最も有効的に、かつ凶悪と言ってしまいたくなるほども活かされたのが「すずめの戸締まり」だと思われます。本作の主題は災害です。また内容面で述べたように、災害への恐怖が、観る側を没入させるキーとなっています。


 その点について、あまりに徹底的だった。その判断をすることは憚りたくなりますが、情感を含めて再現された、圧倒的に“現実的な”映像だったと思います。なにかが崩壊したことへの重すぎる絶望感について、少なくとも私は、あの日に引き戻されていました。また自身が経験した他の災害について言えば、感情を完全に再現させられるものでした。




 個別で言えば、今作で最も印象に残ったのは汚泥の不快感です。冒頭のコンバースが泥に沈み込むシーンで、本作が怖い作品になることは、なんとなく予期していました。また廃墟の美しさと上段で述べましたが、むしろ印象に残ったのは嫌悪感だったのが正直な感想です。


 もはや破れたというのに、なお鋭利で人を傷つけるガラスの破片。こびりついて離れなさそうな金属のサビ。崩落を予期させる建物への忌避感。暴力的とすら言える映像の是非はこれから問われるとして、作品の主題と企図を思えば、あまりに作品を高く成立させる映像力でした。





 音楽についても同様です。新海作品は映像と音楽の“コラボレート”といった感があり、それは作品の魅力を拡大する一方で、どこか一体性を損なう側面もありました。


 天門音楽は感傷をやや過剰に深め、山崎まさよし大江千里の名曲は、作品全体を逆にPV化してしまう強さがありました。RAD参加以降についても、やはり新海誠と野田洋次郎の、独立した共鳴という感があります。しかし本作については、完全にストーリーが主として、音楽を従とした


 質が落ちたわけではありません。むしろ映像と同様に、ストーリーと一体となり、観る側の感情を大きく揺さぶる強力な音楽でした。世界観のわかりやすさと歩みを合わせた、キャッチーな旋律もよかったですが、そんなことよりも、あの冷酷なアラート音です。



 作中の人々がやや慣れた態度を見せるように、僕らも少しうんざりした気持ちがあるかもしれません。しかしやはり、あの地震を、津波を、洪水の危険を告げるアラーム音を、無感情に聞き流せるほどいまだ冷静ではいられません


 きちんと音程は外されています。しかし、誰が聴いてもアラーム音を連想させる旋律が、複数のアレンジで流されるのです。倫理的な是非はわかりません。ただやはり、作品の主題を達成する上で、ここまで効果的な音響を徹底的に構築したことが、本作の重厚感と没入感につながっているのは間違いないでしょう。




 一方で、シーンにあわせ適格な既存曲を“借りてしまう”ということも、本作はやってきましたね。それも、空気感を変えて欲しいという目的で起用された、非常に抑制的かつ効果的な使用だったと思われます。


 やや場の空気から“浮いた”曲を流すことによって、逆に現実感が増す効果もあった気がします。なぜなら、それを僕らは非常に日常的な動作として、当たり前にやるからです。


 さらに、その曲を聞けば誰もがすぐに“ある世界観”を連想する曲を起用するなんて、監督の屈託のなさにしびれるほかありませんでした。(この人そういう点では怖いもんなしというか。大作家の自覚と向上心はあるのに、高慢はないんですよねぇ……)




 個人的にはメインテーマの使い方が好きでした。今回、かなり色々なアレンジで流されていますが、それが作品にあっている気がして。メインテーマ、一人の人間の生き方の旋律、それって大きくは変わらないはずです。


 ですが、なにかに魅入られれば不気味な音階になるし、決意をすれば壮大にもなる。特に終盤にさしかかるに際しての、旅立ちのシーンの入り方が抜群でした。あそこ全然モノローグがないのに、ものすごく気持ちが強いシーンだと思います。美しかったです。





 さて、ネタバレ抑制の段の最後に、登場人物についてまとめたいと思います。新海作品はストーリーあってのキャラクターで、今回も単体でどうこうというのは(一部成人男性をのぞいて)なかったと思いますが、やはり魅力的でした。



 すずめは歴代主人公と比べ、圧倒的にモノローグをしないため、ややわかりやすさが乏しい一方で、それぞれが想いを重ねられるようになっている気がしました。彼女の死生観と家族への想い。その変遷と変わらない部分語らないからこその強さもありますよね。(一方で、一番大事なことだけは大声で語ってくれたので、子どものように泣いてしまいました……)


 すずめと草太の関係も、映画という尺の狭さを感じるのは事実として、私はよかったと思います。無粋に推測すると、2人は孤独というわけではないも、なかなか言い難い胸の内秘めた“1人でがんばってきた”ことがあって、それを共有できたことが絆につながってるんじゃないかなと。


 好きとラベリングしたほうがわかりやすいからそうな一方で、ストレートな恋愛感情とはまた違う気もしましたし。であれば、私にはあの決意も事足りるものではありました。仲間を迎えに行くことは、ある意味当然の一つです。(新海監督の愛してやまないラピュタも、やはり絆の説明は乏しいですしね。つながるときはきっとつながるでいいと思います)




 あとやはり環さんですね。強い。さすが年上女性好き性癖を描き続けてきた新海誠


 冗談はさておき、もうひとりの主人公と言ってもいい彼女の情念の生々しさは、本作の鋭さを高めていました。また彼女の最終的な気持ちが成立することが、本作の優しさにつながるところですね。(エンディング中の演出が抜群にいい。あれを金ローで切ったらお気持ち電話待ったなしかもしれません)


 ただ、構想の段階にあったという環さんヒロインも、筋書きがどう変わるかわかりませんが見てみたいですねぇ……。個人的には、いま少し彼女の尺が欲しかったかもです。写真のシーンとかあと3秒でいいから見ていれば、もっと終盤が響いたかも。(すずめが環さん相手のときだけ“変に背伸びして大人ぶる”ところももっと見たかった)




 個人的にはダイジンです。けっこうボロクソ言われていますが、なんというかいたたまれない気持ちになるキャラクターでした。しゅんとなるところよりも、きらんとなるところが本当に辛い。幼い頃、神様や仏様の昔話を読んだとき、どこかうら寂しくなったことを思い出しました。


 新海監督がインタビュー等で言われている、“始めるときは地鎮祭なんかするのに、廃れてしまったあとに悼むことはしない”という内容にも通ずる気がします。なんですかね……やっぱりこう、人という営みが許されていることは、業が深いのだなと。愛と言ってしまうと、擬人化が過ぎますけれども。







 以上、いったんのまとめとしたいと思います。作品としての面白さなら「君の名は。」でしょう。気になる興行収入なんかも、比較になるほどのものにはならないと予想します。これはあまりに重すぎます。僕はもう一回見に行きますが、何度もリピートする人は少ないでしょう。


 しかし、作品が主題を軸として統合されていること。そして“大くの人に観られる”作家としての自認のもと、より普遍的な主題に取り組み高品質な作品を完成させたこと。それらの点で、これまでの作品と“比較にならない大作”だったと思われます。


 私は本作が一番心に残るし、好きになると今は思っていますかれこれ17年近く監督のファンであり続けて、本当に良かったと思える作品でした。そういう意味では、やはり誰かに見て欲しくなる作品ではありましたね。

記事にチップを送る















 さて、それではネタバレを考慮せずに、もう少し話したいと思います。「すずめの戸締まり」は強い批判を受ける可能性すらある作品です。これまでなされてきた、気持ち悪いとか、独りよがりなんて批判とは比べ物にならない重い批判をです。


 それは当然、本作が11年前の3月11日に起こった東日本大震災を直接にテーマとし、その印象、光景、情感を深く掘り返すことを企図しているためです。もちろん、新海監督は“違法なこと”などしていないとは断っておきたいですし、ファンとしてはその誠実さを担保に“不当でもない”と言いたいです。


 されど、なぜそこまでしたのか。そこまでして、本作が表現したかったテーマと結論とはなんだったのか。頒布の「新海誠本」を読めばほとんどわかることではありますが、改めて考えてみたいところです。





 本作が前提とする世界観--世界の捉え方ですが、衰退に向かっているうえに、いつ喪失するかわからない世界というものだと思います。もはや成長は乏しく、できることよりできないことのほうが多くなっていく。不都合で不自由な時代


 だというのに、けっして安定的にながらえるものでもない。中盤の東京の慣れ親しんだシーンにおいて、はっとする気持ちがありました。この景色が、明日唐突に喪失するということは、“決して非現実的ではない”。震災は繰り返されるという科学的な事実。また景観はともかく、営みが突如として変質することは、ここ2年間においてあまりに実感されることでした。


 そんな時代のなかで、どこか乾いた絶望感と、そして後ろめたさのようなものを感じます。それはある程度、共有できる感覚なのではないでしょうか。生きると死ぬが少しの運の差でしかないという、すずめの削り出されたかのような死生観にいたらずとも、近しい想いは多くの人が持っているはず。




 でもそんな、衰退と喪失を逍遥と受け入れたいのが本音なのか生きたいと思うことに憚っていたいのか。たとえ現実が変わらないとしても、もう少し生を謳歌し昂揚させたいのではないかそうしたいのならば、それはいいのだと。「すずめの戸締まり」のメッセージ性というのは、そういうことだと思われます。


 そしてその励ましを支えるのは、日常は必ず回帰し滋味深いという確信です。以前、なにかのインタビューで、新海監督は蛇口の先にすら生き続けるに足る美しさは宿るという趣旨のことを言っていた気がします。蛇口かはわかりませんが、確かに美しいものはそこかしこにある日常はやはり、多くの人が生き続けることを選んでいるように、生きるに足るものであるはずなのです。


 それは本作で描かれたような、交流であったり、食であったり、景観の美しさであったり、変化しても再構築されるものに依拠します。喪失があっても、取り戻されるのです。それは作中において描かれていたように、全てが喪失した海岸すら、みみずがのうちまわった火の大地すらも、“やがて美しくなっていく”。かつての美しさが喪失しもどらないものであってもなお、という痛ましい回帰でもあります。




 
 ただし、最後に残るくびきが、やはり憚りです。ほんのわずかな差で生きながらえ、なお明日も知れぬ日々において、生を喜ぶことはあさましくないか。そのことについて、本作は非常にシビアながら、それでも前へと向ける描写であったように思います。


 喪失した側もそう望んでいた。そう描くことが、最も簡単であるように思います。社会全体の復元性を描いて、それを個人に落とし込んでもいいかもしれません。しかし本作において新海監督は、そんな演出を選びませんでした。喪失した側は、ただ喪失したのみ。自分の喪失は自分だけのもの。




 本作において、最大のミスリードと思われるのが、幼いすずめの常世での邂逅です。あのシーンを観て、ほぼすべての人は死別した母であると思ったのではないでしょうか。転じて、母のなんらかの思いが、すずめを救ったのではないかと、そう想像させたと思います。しかし、そうではなかった。すずめを救ったのは、すずめ自身の言葉だけでした。


 であればこそ、あのシーンの叫びは強い。未来の自分は、きっと生きて今より大きくなっているただそれだけの事実をもって、これから生きてよいのだと、ただそれだけで生きていけることを肯定する。なんら条件も留意もない。(そして監督が語っているように、過去や未来の自分と対話することは、極端にファンタジックなことではありません。私たちはときに、未来や過去の自分を想起し、なんらかの答えを得ます)




 論理的な弱さはあるのかもしれません。実際、この記事を書くにあたって、ではなぜ生きてよいとすずめはその瞬間に言えたのか。椅子を渡し、母とあの日に、返答のあり得ない言葉を言えたのか。そのことについて、文章化することはかなり困難です。


 しかしすずめが、ただそうであることを担保に肯定し、生の昂揚を割り切ったということに、私は赦された気持ちになったのも事実です。

(個人的な経験を少し書きます。数ヶ月前、父が亡くなりました。持病こそあれど、60歳の死は間違いなく腑に落ちない喪失でした。日々が経ち、日常に復帰してもなお、どこかうしろめたさがあった気がします。苦労もした父は、私の生を赦してくれるのだろうかと。けれど、本作を観てその気持は、少しやわらいだ気がします。なぜなら、それを肯定することも否定することも、できるのは私だけだからです)





 以上がテーマとはなんだったかについての、個人的なまとめです。記録のための映画であり、同時に励ましの映画である。


 そして記録としてあの震災を悼むと同時に、より拡げ、不自由と喪失の時代を生きることを肯定する日々はなお、少なくとも生き続けている人にとっては、喪失を超えて滋味深いものであるのだからと。






 この主張について私は、感銘を受けてしまった側です。そのため、ここから先の検討は、フェアとは言い難いのやもしれません。しかし、いま少し考えてみたくなるのが、このテーマを描いた妥当性です。


 結論から言えば、本作をもって新海監督が非難にさらされることは、妥当だと考えますそれだけ今作の描写は酷なものでした。風化を望む人もいる。その一方で、“当たり前であったはずのただいま”を述べられなかった日常があることを、かほどに掘り起こすことは、加害なのかもしれません。


 もちろんその判断は、最終的には当事者のみに許されるとして、映像面や音楽面においても、辛い作品を作ったことは間違いないでしょう。であれば、非難されることは当然。





 しかし、それをもって新海監督が倫理観の乏しい、商業主義の作家であるという意見があるとすれば、強く反対したくもあります。監督は恐ろしいまでに、本作において誠実です。「君の名は。」で言われたような幻想を廃し、喪失に対して冷徹です。


 またそれを、作品が極めて大規模に共有されるという自覚をもってやっています。本作に恐れや迷いが濃かったことは、インタビュー等からもにじみます。しかし、第一線の創作家として、忘れるばかりではいけない、誰かが物語として残すべきだという覚悟をもって、徹底的にやったことについて、深く敬服したいのです。



 おそらく、“創作は作家の自慰行為”などとうそぶいて、純度は高いが規模の小さな作品を作ったり、より多くの人が朗らかに納得できる大らかな作品を作るほうが、楽だったでしょう。しかし、そのどちらでもない、厳しい高さの水準点で完成を得た


 彼は本気で観客と語ろうとしているのです。そこで覚悟を決めている作家は、仮に残酷であったとしても、不実ではないでしょう。そこだけは、主張したくなるのです。






 最後に一ファンとして。もはや彼の人が、感傷を描く“僕らの創作家”ではないということには、寂しさもあります。しかし、これほどまでに腹の据わった作品を撮れる監督を、もう止められる人はいないでしょう。創作家としての新海監督は、極めて自由であるように見えます。


 同時代の迷いや悩ましさ。伝統的な作品が語る言葉じゃ腑に落ちきれない、現代の私たちのためにこれからどんな言葉を投げかけてくれるのか。おそらく数年もしないうち、次の物語が聞けるだろうという日常は、滋味深いことかと思います。



シン・エヴァ短観(設定よりテーマで)

 しっかり見返して書き残したいが、そんな時間はそうそうない。それにジャストの世代ではなく、付き合いとしては15年と少しくらい。視聴者としては余裕ならあるほうか。


 とはいえ、アニメというジャンルで、ここまで大きな存在と化した作品は数えられる程度だ。記録は残しておきたい。手短に。要点だけをまとめるような形で。




 本作を視聴して残った感情は、穏やかな歓送の気持ちと、少し冷めたような哀しさだった。どうしてということをほぐしていけば、本作へのレビューが成り立つような気がする。


 まず歓送の気持ち。細かい部分に思うところある人は多いだろうし、自分もそうだったが、やはりうまく終わらせたなぁと。


 エヴァといえば設定の大風呂敷。旧劇・新劇と膨張してきたものを、実に涼やかに幕引きしたと思う。それぞれのキャラが、きちんと行き着くところにたどり着いたように見えて、すっきりとお別れできた。そこには心からの拍手をおくりたかった。




 しかし、その後になぜか冷めたような哀しさが残った。最終的にはそれが大きくなって、落胆したような気持ちにすら変わっていってしまった。なぜなのか。


 それは邪推するところ、字面のテーマに作り手の感慨が追いついていないからなのではと思ってしまう。品のいいレビューとは言い難いが、それが正直な感想となる。



 エヴァは孤独の物語だった。別個の存在として決してまじり重なることなく、わかりあうことのない人間という群体。


 現実では否応なしにそれを受容しなければならないわけだが、エヴァはそこに仮想の解を投げかける。人と人の境界をなくし、補完をなせば、そこに至上の救済はあるのかと。



 それへのアンサーとしては、本シリーズは一貫して反対の立場をとってきた。いや反対とまではいかないか。としても、それも良いのかもしれない、相補性のなかでの不完全な慈しみ合いは、完璧な個の孤立よりきっとのぞましいものだと、最後には言ってきた。


 しかし、複雑な設定が生み出した過剰な考察と、セカイ系という形での変容が、一見複雑なようで、その実シンプルかつ力強い本作のテーマを散逸させてしまった。“綾波レイ”というイコンへの隷従が、その最たる例か。



 であれば、突き放さなければならないというのは妥当な話だ。旧劇でのぶん殴るかのような悪意も、新劇での根を詰めるような意地悪さも、致し方ないのかもしれない。


 プラモかジオラマかというあえて軽薄なセット。スタジオからの退出という演劇性。映像はコンテへと還元され、否応なしに“これはただの架空の物語なのだ”ということを突きつけてくる。


 『カップリング』をことごとく外してきたことも、マリという異分子を組み込んだことも、あまりに爽快すぎるエンドも、必要なのだというのはわかる。ここまでしないと別れられない、“さらば”とできなかったのはそうかもしれない。



 しかしだ、やっぱり身勝手な自己完結となぜか思ってしまうのだ。俺は満足した。俺は克服した。まだこだわってるの? もう十分じゃない?笑……とでも言い換えることのできそうな、冷たい無関心を感じるのだ。


 なぜだろうか。やっぱりそれは、エヴァが孤独の物語であるがゆえに、他人に優しさを届けることが不器用だからか。それとも、けっきょくは他人への優しさとは、利己をつつんだまごころに過ぎないからか。


 こんなにも丁寧にしっかりと、それも視聴者を慮った作り込みであるというのに、なぜか、この人が26年間かけて伝えたかったことは、これなのかと、妙に寂しい気持ちになってしまった。それがシン・エヴァをみて感じたことだった。




 付け加えて、いよいよ感想としての品位を落としていくが、ある作家との奇妙な相似と相反を感じるのだ。贔屓目も多分にあるだろうが、それは新海誠についてである。


 別に時期的な相似はない。むしろエヴァが生んだセカイ系の系譜に新海誠はあると、後発作家と言うこともできるかもしれない。加えてありようも異なる。エヴァの企図する本質的な自我の孤独と違って、新海誠の孤独は“寄辺のなさ”とでもいうような、もう少しフランクなものではある。



 としても、新海誠も19年間孤独を描いてきた作家だ。そして孤独を避けがたいものと捉え、「秒速5センチメートル」をピークとして、感傷と過去への撞着に視聴者を置き去りにしてしまった作家という点でも相似がある。


 新海誠のテーマもまた、それでも前をむけるはずという、本来は温かいものだったはずが、そうは捉えられなかった。そんな点も似通っているだろう。



 そして新海作品もまた、「君の名は。」「天気の子」と、テーマの描き直しを行ってきたわけだ。そんなふうにまったく一緒のはずが、なんと印象の柔らかなことか。


 別離は避けがたい。けれど、再会の奇跡の可能性は0じゃない。つながりは引き裂かれるだろう。でも、東京を海に沈めるくらいしたっていいじゃないか。それでセカイは壊れやしない。セカイ系なんて成立しないから、気にせず求めればいい。



 なんというか、懐の深さなのだろうか。見る側に語りかけたいという姿勢の微妙なニュアンスなのだろうか。最後にはそうなのだろうか。わからないけれども。


 ただ、芸術は自身に向かい合うものであるけれど、大衆娯楽は社会や見る側と真摯に向き合わなければ大作とはなりえない。アニメや映画がどちらに類するかもまたわからないけれど、旗手と言われるような造り手が、後者にあたるとするのならば……。


 ジブリを引き継ぐ大作家という地位に、いまのところ近いのは、弟子の方ではないかもしれないとも思うのだった。


記事にチップを送る



「スター・ウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け」-なぜ面白いのに納得いかないのか-

 スター・ウォーズ9を見てきました。かなり良かったはずです。少なくとも、賛否両論の8を踏まえて、よくぞまとめきったと言えるのは確実です。なのに、なぜか納得がいかない


 テーマになのか、ストーリーになのか、はたまた魂……つまるところ、“フォース”の相性の問題なのか。それに関して、新奇性という点で考えてみたいと思います。(注:ネタバレはすごくありです





 言わずと知れた超大作のシリーズ最新作。素直に楽しむことがベストでしょう。しかし、評価に関しては議論が生じています。続三部作に共通することであるのですが、じゃあなにがそんなに不満なのか。


 冷静に考えると、悪いところはないのです。展開や主題も実に“らしい”ですし、映像的には卓越している。演技も良いですし、音楽の魅力だって変わらない。けれど、なにかがひっかかる。本当になんなんでしょうか。


 レビューをかねて、確認していきましょう。まずはストーリー展開について。これが一番言われている気がしますが、少なくとも9に関しては全く問題ないのです。確かに展開が飛ぶ気はしますし、新キャラをねじ込みすぎというのはあるのですが、それは1~6と変わりません


 特に6なんか、突然に第2デス・スターが出てきますし、これまでの戦いはなんだったのかというのはあった話。皇帝の登場も考えてみれば急ですし、1のジャージャーの交通事故と比べれば、ポーの元カノやフィンの第3ヒロインなんて可愛いもの。悪くはないのです。



 むしろ客観的に読むならば、良かった点がいくつもあります。光と闇が合わさり最強に見える、と言うべきかという展開は、なかなかよく盛り上がりました。レイとカイロ・レンの対比もよかった


 レジスタンスの動向も、きちんとレイ/レンの物語と絡んでいて、無駄がなかったと思います。語り方に説得力がありましたし、スターウォーズらしいストーリーであったことは間違いないでしょう。




 では、ストンと来ないのはテーマゆえなのか。これもいくつか見る意見な気がします。しかしこれについても、同様に過去作と比べて突飛なまでに飛躍はしていないのです。


 過去作のテーマと比較して、9は「光と闇の対立」から「光と闇の調和」という転換を描いたような気がします。6まで帝国は絶対悪として描かれ、それは続三部作でも踏襲はされていますが、レイが闇を受け入れたように、ダークサイドを完全否定はしていません。


 また「血統の物語」から「絆の物語」という転換もあり、ライズ・オブ・スカイウォーカーと唄いながら、事実上はスカイウォーカー家が断絶する(しかし意志は受け継がれたからレイはスカイウォーカー)というテーマは興味深かったです。



 これらはスターウォーズの描写において、決して異質なものではありません。特にクローン・ウォーズなどに描写が豊かですが、シリーズにおいては光と闇の調和が望ましいとされ、両者がいたずらに争う二項対立を、正義と悪の単純化に陥るものとして批判している気もします。(ジェダイ・オーダーの教条主義など)


 また邦訳で“理力”とも言われる、宇宙をつなぐフォースの力に関して、実質的にスカイウォーカー家とパルパティーン家で物語が閉じてしまっているのもいかがなものでしょう。だから血統ではなく絆。そして訪れる艦隊は“人民”の船なのです。


 これらの点で、9はスターウォーズ・シリーズのテーマ上の宿題を解消したと評価してもいいくらいでしょう。光と闇の調和を示す金色のライトセーバー。俺が、俺達がスカイウォーカーだと言わんばかりの大掛かりな帰結。良かったと思います。



 そして逆説的な言い方として、やっぱり過去作での転換と比して、別に大きな転換ではないのです。いきなりミディ・クロリアンなんて設定が飛び出した1と比べれば、心安らかに呑み込める変化でしょう。


 また明るいSFから暗い人間ドラマへと変化した旧→新三部作に関しても、テーマについての批判はありました。だとすれば、9及び続三部作への批判もむべなるものかというところで、やっぱりテーマを理由とするのは筋違いな気がしてくるのです。




 じゃああとは何なのか。映像か音楽か演技かというところで、これらを理由に上げる人は少数でしょう。もちろんそれぞれ雰囲気は違います。旧三部作の古典的な映像の雰囲気がいいという人もいるでしょうし、新三部作の有機的なデザインが好きな人もいるでしょう。


 ただいずれと考えても、9はその要望をしっかりと満たしています。スターデストロイヤーの大艦隊など、銀河帝国兵器好きなら感涙モノだったでしょう。私もそうです。一方で砂漠に雪国に草原と、銀河の自然的表現もバッチリだったでしょう。そしてなによりも、単純に映像技術が優れていた



 音楽の魅力も変わりません。新しさはないにしても、さらに雄大となったメインテーマなど、名曲と挙げる人の声もそれなりに目にします。今回でジョン・ウィリアムズが降板することは残念極まりないですが、やはり良かった。


 演技も良いですね。ライトセーバー戦はややもっさりしていたような気もしますが、新しい演出などもあり、面白かったでしょう。なによりアダム・ドライバーの熱演は特筆すべきで、彼の情熱なくして続三部作はまとまり得なかった気もします。やはり、9に悪いところはないのです。




 じゃあ何なのか。シリーズの総覧たるジョージ・ルーカスや、ルーク役のマーク・ハミルという、シリーズのレジェンドが続三部作に否定的というのは、理由になるやもしれません。二人は批判を隠していませんし、ディズニーに版権が移ったことへの後悔も述べています。ファンとしては、この意見をそのまま受け取るのが通であるような気もしてきます


 ただ文字にしてみると明らかなように、そんな考え方はナンセンスなのです。作品の良さは作品自身が定めるもの。いかにレジェンドの二人とはいえ、その評価が絶対ということはないでしょう。決定権は観客にあるのです。観て良いものと思ったのなら良いものなのです。




 いよいよ分からなくなってきました。じゃあやっぱり9は良い作品なのか。少なくとも、ヤフーなどの国内大手口コミサイトでは、まずまずの評価が計上されています。もったいぶっていますが、やはり9に対する否定的な意見など、ノイジー・マイノリティーなのかもしれません。このレビューもここで終わるべきなのでしょうか……。



 そうとはいかないわけです。やっぱり9には納得がいきません。そしてそれは別にマイナーな意見でもないのです。実は米国映画でよく参照される批評サイト:ロッテン・トマトでは、ナンバリング最低となるスコアを記録しています。


 そしてサイトにはこの映画の評として、ずばり“想像力の欠如”“ゾンビ”という単語が挙げられています。このドギツイ批評はいったいどういうことなのでしょう。




 けっきょくのところ、新しくないんじゃないかと思います。リアルタイムとしては1から視聴の私が言っていいのかは分かりませんが、スター・ウォーズは“新しいわくわくする映画”なのだと思うのです。


 4はけっして期待された映画ではありませんでした子供っぽいヘンテコなSF映画として捉えられ、しかし爽快感のある宇宙活劇として旧三部作が成立しました。そして新三部作では一転、重く暗い政治劇と愛憎劇先進的なCGとデジタル撮影で描かれ、度肝を抜かれました。評価は割れましたが、やはり新しかったのです。


 CGアニメに銀河世界の可能性を広げたクローン・ウォーズ。一介の兵士と帝国側に人間味をもたせたローグ・ワン。マスター/パダワンのこれまでにない関係性を描いた反乱者たち。やはり新しいのです。新奇であり、わくわくさせてくれて、ただこれまでを繰り返すようなトートロジーの作品ではなかったのです。



 一方の9は、けっきょくのところ従来の焼き直しだったように思います。風景はどこかでみたような印象です。兵器も登場済みのものがちょっと複雑になった感じです。光と闇の愛憎劇も、見たことがないわけではありません。


 なによりも、最終的な対立軸を「スカイウォーカー vs パルパティーン」にしてしまった。上でテーマとしてまとめたように、いくら内実が異なっていたとしても、大枠は変わらないのです。であれば、“ゾンビ”であり、二次創作としては豊かであっても、新奇性に富むとは限らないのです。




 これこそが9に対する納得のいかなさだと、私は思います。そしてこのトートロジーを、旧シリーズの全ての登場人物を不遇な状況に追いやってまでなさねばならなかったのかと、どうしても疑問です。劇中のチューバッカーのように、嘆きの雄叫びをあげたくなるのです。


 確かに再びスター・ウォーズを味わえたということに関して、喜びもあります。それはそれで本当です。けれど、腑に落ちない気持ちを消化するために言語化しようとすならば、こういった内容なのではないでしょうか。


 (また追記するとするならば、終盤の先人たちの戦いを引き継ぎ立ち上がろうという展開も気にくわなかったのです。世界的に政治・経済面で苦しい時代ですが、そんな時代で渡された世代としては、美談にされるのは……というひねくれた気持ちもわくのです)




 以上が「スター・ウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け」に対する感想というところです。考えてみると、ルーカスが言う通りディズニーに版権が移ってからなにかおかしいというか、商業主義への迎合度合いが高くなりすぎているのではないでしょうか。


 やはりディズニーのDはダークサイドのDといいますか、本作で描写されたように、そろそろ人民は“D”サイドの圧政に立ち向かうべきなのではないでしょうか。我々はたった1人の偏屈なファンなんかじゃない。孤立などしていない。先頭に立つんだと。そういう気持ちで、こう、ですね。


 (ただディズニー資本のおかげで反乱者たちが生まれ、クローン・ウォーズの最終シーズンが企画され、マンダロリアンも面白そうという話になると……ダークサイドへの転向もやむなしかというのが、一番むずかしいところです)

記事にチップを送る

記事検索
タグ絞り込み検索
  • ライブドアブログ