感想レビュー(草原に吹くこえ)

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「ノートルダムの鐘」-否定される自己、失恋、ディズニー映画の底力-

 なぜこの映画を勧めた……と、友人に言いたいこの作品(笑)


 汚い言葉を使って概要を述べれば、容姿イマイチ・引きこもり・独男の主人公が、女の子に仲良くされて恋に落ちるも、けっきょくその子の恋を助ける“いいお友達”に終わるお話。いや、露悪的に表現すれあ、ですけどね;






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 その醜悪な見た目から、ノートルダム大聖堂に幽閉されて育てられたカジモド。彼は祭りの日、外の世界への憧れを我慢しきれず飛び出すが、街の人々の迫害にあってしまう。


 そんな折、ジプシーの娘のエスメラルダと出会い、追われる者同士助け合うことに。2人は意気投合する。しかし彼女に、街を牛耳る最高裁判事、フロローの手が迫っていた。

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 感想を述べるに、ディズニー映画の底力を感じた作品でした。興行的には失敗し、知名度も人気作と比べると一段落ちる作品ながら、恐ろしく良く出来ています。


 まず物語の重厚さです。そもそも愛と希望と冒険を描くディズニー映画にあって、“醜悪な見た目の主人公”というのは斬新でした。確かに“耳がでかい”とか、“呪いをかけられて野獣”とかはありますが、単純に“ただ醜い”とは強烈です。


 いくら“愛に容貌は関係ない”と綺麗に言おうとしたって、どうしても可能性の限界は生じるわけです。踏み出そうとしたって、うまくいかないかもしれない。そしてそれは、本作において強調すらされます。


 群集に迫害されるカジモドのシーンがそれです。演出が抜群にうまく、まったく救いようのない気分にさせられます。主人公が逆境や異端であっても、なお前向きであり、また受けれ入れられる余地があることが多いディズニーにおいて、カジモトの存在はひどく異質です。




 さらに、そんな自己否定から始まる物語が、けっして大団円を迎えるわけではない。ディズニー映画に類を見ない、失恋のシーンが本作にはあるわけですが、逃げも隠れもせず、カジモドの哀しみは正面から描かれます。


 美しく無垢な心を持つ彼は、騒ぎ立てることなく身を引き、想い人と恋敵が手を取り合うまで尽力するわけですが、その姿はきちんと痛々しい。清々しくはあっても、けっして輝かしい結末ではないのです。




 そしてもう一人。カジモトとならび立つディズニー界の異端(彼にとっては最も忌むべき表現でしょうが)、フロローの存在が映画をどん底までに深めています。


 過剰で独善的な正義感のもと、無実の人々をも迫害し排除しようとする判事。しかし彼は、あろうことかジプシーの娘ーーそれも犯罪者のエスメラルダに情欲を抱いてしまう。


 そこで生み出される葛藤と暗い妄執。それが警察権という暴力機構の力を借りながら、パリの街を焼くまでに肥大化していく様はまさしくグロテスク。彼一人の存在感ですでに、もはや本作は一線を画す作品となっています。




 物語についても、全般的にシリアスで薄暗く、とても子供向けに製作されたとは思えません。観ていて歯ごたえのある、大人向けの作品とすら言えるでしょう。


 絵と音楽も素晴らしく、ディズニー・セルアニメ映画の1つの金字塔かもしれませんね。キャラクターの動きは大きく滑らかで、パリの一角という舞台の狭さを感じさせない。特に色彩の豊かさが素晴らしく、場面の雰囲気に合わせて鮮やかに変化します。



 音楽もまたいいですね。特にテーマ曲の「ノートルダムの鐘」は、荘厳な雰囲気が出ていて実に印象深い。

 そしてなんといってもフロロー判事の「Hellfire」。何年もヘビロテしています。いや情念。本当に名曲。ディズニーは邦訳派ですが、個人的にこればかりは英語とラテン語で聞いてほしい。



 こんな風に、実に出来のいい映画でした。個人的な趣味にもハマっていました。ただ、なぜこの映画を勧められたのかいまだに分からない;


 なぜならその当時、自分は長い片思いを崩して落ち込んでいて、それでなにか面白い映画ないと聞いたのですから 笑


 疑問は尽きずとも、ディズニーの栄光と実績を再確認させられる名画。そしてその枠から離れても面白い傑作です。ぜひともおすすめ。


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有島武郎「カインの末裔」

 有島武郎「カインの末裔」を読了しました。日文を読んだのは久しぶりですね。発表は1917年


 確かに昭和を超えた作品として、非常に洗練されたものがあります。ですが、個人的にはそこまで好きではない。ありのままの人間の野卑さは、庶民には見慣れたものでありますゆえに。






 本作は北海道の寒村を舞台とします。どこからかやってきた農夫 仁右衛門は、再出発を企図し、小作農として畑仕事に精を出します。見上げるほどの体躯、頑健な馬、無気力だが言いなりの妻を駆って、彼はたしかに大地の実りを手にします。


 しかしその人となりは粗野。稼ぎは賭博で飛ばし、農場との取り決めを破り、隣家の人妻と情事にふける。些細な嫉妬暴力につなげ、得ざるものを求めてけっきょく得られず、また得ていたものを失う。その姿はまさしく“カインの末裔”でしょう。



 本作を特徴づけるのは、まさしくこの、タイトルに表されるキリスト教的人間観です。人は持たざるものを求め、無知ゆえに驕り高ぶり、そして破滅へと向かう。まこと罪深く、そして度し難いものであると。


 これの表現に関して、本作は非常に的を射ています。わずか3万字強の短編ながら、荒れ地にワジを刻むが如く、くっきりとテーマを浮かび上がらせています。


 わざとらしさがないのに刻銘なんですね。日本の農村という、旧約聖書とは遠い舞台でありながら、それを達している点も興味深いと思います。




 また上記を背景として支える、北の大地の自然描写も鋭いです。けっして優しくない。人間に豊かさをもたらすとしても、あくまで苦闘の末の収奪であることを感じさせる、圧倒的な荒々しさです。


 短い作品のなか、季節もしっかりと移り変わります。覆い尽くす雪の冬、雲蚊が立ち込める不快な春、辛苦を強いる酷暑の夏。そして、ゆえに鮮やかに実る短い秋と、農夫の苦しい一年が描きこまれています。



 以上のように、本作は研ぎ澄まされた小品であり、代えの効き難い作品です。同じく北の農業を描くとしても、宮沢賢治で代替するわけにもいかないでしょう。


 近代農業への過渡期が描かれている点、またキリスト教的示唆がテーマとされている点も、現代においての再現不可能性を高めています。近代文学という席に置くにおいて、優先されるべき作品であることは間違いありません。




 ただしです、じゃあ本作を大いにオススメするかというと、不思議とそうなりません。それは救いがない展開で暗いから、というのもありますが、それだけではない。


 妙に“ウンザリさせられる”ところが本作にはあると思います。それは個人的には、本作が描く人間の粗野さについて、ありきたりと感じるからかもしれません。



 作者の有島武郎は高級官僚の息子であり、ハーバードへの留学も果たしたエリートです。一方でキリスト教に、ついで社会主義に傾倒し、最後には不倫の末 心中を果たしたロマンチストでもあります。


 ならば、そんな彼が描く“カインの末裔”の姿は、確かに異なる世界を見通した鋭いものですが、それは彼が所属する階層においてのもの。時代が変われば斬新さは変わるはず。


 要するに、仁右衛門みたいなやつとか、公立中学とか中小企業にめっちゃいるじゃんというのが私の言いたいことです。庶民の立場でながめると、別にいまさら“見通され”なくとも、生活の一部となっている


 だからウンザリするわけです。その鋭さは、必ずしも現代において新鮮ではない。また、逆に農業の様子については現代農業と隔絶しているところも、他人事のように感じてしまう理由でしょう。




 以上にように、間違いなく優れた作品です。文学史の確認として読んで損はないと思います。一方で、読み物としては華やかさに欠けるところがあり、また得られる視点も新しい気付きとはならないかもしれない。


 青空文庫にすでに登録されている作品ですし、そちらで読んでみるのはいいかもしれませんね。ただ最後に、動物好きの人だけは読むかどうか注意です。しかしまぁ、知恵の実を持たぬ“畜生”の、なんと哀れで親しみのあふれたことか……。



 https://www.aozora.gr.jp/cards/000025/files/204_19524.html


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乙一「失われる物語」(「百瀬、こっちを向いて。」の話も)

 けっこう本屋さんで一世を風靡していたような気がします。ライトノベルの大衆化の象徴、あるいは一般書籍のライトノベル化の嚆矢とも言えるのが、短編集「失われる物語」です。これと「Zoo」がえらい売れていたような気がします。


失はれる物語 (角川文庫)
乙一
角川書店
2006-06-24




 基本的にはハートフル×悲観主義で、恋とか人間性とかでいい話だなぁというところから、驚きの展開で切ない結末にいたると。純愛ブーム下でのセンチメンタリズムともマッチしていたのかもしれませんね。


 意識と腕の一部の感覚を残して植物人間になってしまった男の話とか、30分ほどの時差で電話がつながるようになった男女の話とか、ファンタジーっぽさもありますね。読んでいて面白さに物足りなくなることはないと思います。




 特徴的なのは強い厭世感で、だいたいの話がメリー・バッドにいたります。世の中もあまり優しくなく、被害者意識のようなものも見え隠れ。当時のサブカルチャーの生きづらさもある気がします。オタクといえばイケてない、隅に追いやられた、迫害されるという意識共有みたいな。


 ただ、いくぶんかマイルドで(「NHKにようこそ!」なんかと比べても)、だからこそ広く受け入れられたのかもしれません。その果てが開き直りと大転生ブームなのだとすると、いま思えば遠慮深いものですし。



 一方、文学的なものや詩的なものを期待しても、多くは得られないかもしれません。やはりプロットありきで登場人物は単純化されている印象ですし、テーマも新鮮ですが複雑ではない。


 読みやすさでもあるのですが物足りないところがあり、本の読み始めにはいいやもしれませんが、長くおすすめできる感じではない。本作についてはそんなところです。




 さて、おまけなのですが、同じ作者の別名義作品、「百瀬、こっちを向いて。」の話もしたいのです。この作品は単行本として独立もしたはずですが、初出は恋愛をテーマにした複数作者のアンソロジーでした。






 イケてない高校生が、野良猫のような目をした少女に、やむを得ない理由で付き合っているフリをしろと強要される話ですね。ふりかえってみると、たしかに乙一っぽさがある。



 特筆して思い出深いのが、久留米を舞台としているところ。自分が通っていた高校がある地域であり、高良川の雰囲気なんか馴染み深かったです。


 また、正しく非モテであった自分にとって、偶然手に取った本作は心に染みたんですね。どちらかというと、本作のほうがおすすめです。花言葉を鍵にした三角関係の結末もウィットに富んでますし。



 加えて、おまけのおまけの余談なのですが、そんな乙一さんの恋愛模様、なんと義理の父親が押井守だという話。なんというか、あまり「失われる物語」が肌に合わなかった私も、ふと、それはまた大変に懐の広い偉い作家なのやもと、余計なことを考える次第です。


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